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#1 幼き日の記憶…直木賞作家が描く渋沢栄一の激動の人生

武蔵国の豪農に生まれ、幼少期からたぐいまれな商才を発揮した渋沢栄一。幕末動乱期、尊王攘夷に目覚めた彼は倒幕運動にかかわるも、一橋慶喜に見出され幕臣となり、維新後は大蔵官僚として日本経済の礎となる政策に携わる……。1万円札の「新しい顔」として、改めて脚光を浴びている渋沢栄一の激動の人生を活写した、直木賞作家、津本陽さんの『小説 渋沢栄一』。本作品の冒頭部分を、特別に公開します。

*   *   *

血洗島

渋沢栄一(天保十一年=一八四〇~昭和六年=一九三一)は、成人したのちにも、おぼめく行燈の光に映しだされるような、かたちのさだかではない遠い記憶のなかに、おさない日の自分の姿がゆらめくのを、思いだすことがあった。

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二階の蚕部屋のにおいがこもった土間を、作男に背負われて戸外に出る。辺りは暮れはてていた。家の裏は深い淵で、子供たちが近寄らないよう、大蛇が棲むといわれていた。

淵は利根川の洪水でできたもので、いっぽうの岸に橋がかかっている。市三郎と呼ばれていた栄一は、橋を渡り、土手にあがると、作男の背で利根川の水音を聞きながら、暗い水面を眺めていた。

やがて遠方から提灯の明りが揺れながら近づいてくると、土手下の船宿で人の話し声がして、作男がいう。

「坊、旦那がお帰りじゃ」

闇のなかに提灯の火があらわれ、近づいてくるのを、栄一は見ていた。

父市郎右衛門(晩香)が栄一の前に立ちどまり、煙草のにおいをさせて何事か話しかけてきた記憶よりも、利根川の川面はるか遠くの一点に針先のように見える小丸提灯の赤い光がだんだんと近づいてくる光景を夢のなかでのながめのように、成長したのちまで憶えていた。

幼い栄一(幼名は市三郎。六歳のとき、栄治郎と命名)は雨の降る音を聞くと、恐ろしいような心細いような気になった。夜がふけて、かび臭い蚊帳のなかでめざめると、土蔵の前まで昼間でも暗いほどに茂っている庭いちめんの若葉のうえに、雨粒のたたきつける音が聞える。

それは、はるか遠方から大勢の人がはだしでおし寄せてくる足音のようであった。いまに髪ふりみだした荒くれた男たちがあらわれ、雨戸を打ちやぶって入ってくるのではないかと思え、栄一は夜着の袖を嚙んで不安の泣き声をたてまいとした。

栄一は自分の記憶にはないが、母のえい(栄)に抱かれていたごく幼い頃、まだおむつをあてていた二歳ぐらいのときに、ふしぎなことに物事をきちんと片づけねば気が納まらず、うるさいほどとがめだてたという。

女中、作男などが座敷に出入りして、障子を半分ほど開けたままにしておくのを見ると、まわらぬ口で「あけろ、あけろ」と騒ぎたてる。

栄一の父市郎右衛門(「中の家」渋沢家当主)は渋沢家の親戚(「東の家」)から養子にきた人であったが、商才にたけていて、商人として才腕をあらわし、五十戸前後の血洗島(武蔵国榛沢郡=埼玉県深谷市)村内で中以下の農家であった家を、村内二位の資産家とした。

血洗島は安部摂津守二万二百五十石の領地の一部で、石高は三百五十石に満たない寒村である。しかも村内における田の反別がわずか一町三反余で、畑の三十八分の一であり、米の収穫はすくない。血洗の地名は、利根川が氾濫して、この河畔の村の大地を洗うことに由来しているともいう。主な作物は麦、藍、桑、菜種、野菜であり、現代では深谷葱といわれる葱の産地となっている。

栄一の祖父只右衛門は人柄がいいばかりで、人にすぐれた才能がなかったため、いっこうに家運が栄えなかったが、父の市郎右衛門は農業よりも藍の事業に力を傾けた。

大きな紺屋では、年に数百両の藍玉を染色に使った。藍玉の値段は一駄(馬一頭)に積む三十六貫につき二十両ほどで、売買利益は三両から五両になる。

市郎右衛門は、近隣の農家で栽培する蓼藍の品質については、藍のなかから生れてきたように詳しい。藍を買ってくれる顧客は、信州、伊勢崎、本庄などにある。

家運がさかんになってくると、出入りの人が多くなる。藍商人、親戚の人々、藍を売りにくる人などが、四季折り折りの手みやげを提げてやってくる。

客間では常に訪客の声がしていた。母の乳房にすがり、風車をまわして遊ぶ栄一は、客の出入りするとき、母の膝から眺めていて、

「また障子をしめずにいった」

と叱りつけるようにいう。まえより成長してきたので、よく口がまわる。

母は栄一の声に客がふりかえるのをきまりわるく思い、「いっちゃだめだよ。黙っていな」と口をおさえようとするが、栄一は聞きいれない。

きちんとしめるまで執念ぶかく叫びたてるので、栄一の癖を知らない新来の客は、顔をあからめ、障子をしめなおして帰ってゆく。

「ほんに済まねえことで」

えいは、客に詫びた。

栄一が成人したのち母はいった。

「お前はなんでも中途半端にしておくのが嫌いな子だったねえ。開けるなら、全部開けておく、閉めるなら閉めておくのがよいというのだよ」

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市郎右衛門とえいのあいだには、五男八女が生れたが、十人が夭折して男子は栄一ひとり、女子は長女のお仲と妹のお貞の三人が成長した。

栄一はきわめて健康であった。幼い頃えいはひとり息子が風邪をひかないように、着物を何枚も重ね着させた。遊びに出ると、えいが羽織を持ってあとを追いかける。彼は病気に罹ったことがなく、病床につくことも稀であった。

栄一は五歳の春から父に三字経を口授で習いはじめた。三字経とは倫理、道徳、天文、歴史、文学をわかりやすく説いた三十枚ほどの本である。

「三綱君臣義、父子夫婦従。蚕吐糸犬守夜」

栄一は父の句読につづき、声をあげて朗誦した。三字経につづいて『孝経』、『小学』、『大学』、『中庸』と教えられる。

栄一は文章を忘れると父から叱りつけられるのがおそろしく、懸命に暗記をくりかえす。彼は市郎右衛門がえいと話しあっていたので耳にしていた。

「あの子は覚えがいいから、尾高へ学問を習いにゆかせよう」

尾高とは、親戚の漢学者尾高惇忠(じゅんちゅう)である。

栄一の自宅から七、八町離れた手計村に住んでおり、市郎右衛門の姉が隣村の尾高新五郎に嫁ぎ、もうけた息子で、通称を新五郎といい、藍香と称した。栄一より十歳年上である。

栄一は父から『孝経』、『小学』、『大学』、『中庸』と口授されてのち、七歳になってからは従兄の藍香につき、勉強することになった。

尾高家へ通学するようになると、毎日一刻(二時間)前後、学んで帰った。当時の日課は読書と習字である。

尾高藍香の教授法は独特で、本の一字一句を暗唱させるようなことはせず、多くの書物を勝手に読ませ、自然に理解させ、ここはこういう意味、ここはどういう理屈であると、自分で判断させる方針であった。

栄一は『小学』、『蒙求』、『四書』、『五経』、『文選』、『左伝』、『史記』、『漢書』、『十八史略』、『元明史略』、『日本外史』、『日本政記』など、多くの書物を読んだ。

栄一は読書を四、五年もつづけた。一日に十五、六枚から三、四十枚も読む。はじめはわけも分らず読み下すだけであったが、十一、二歳の時分から本のおもしろみが分ってきた。

おもしろいのは、経書、史書などではなく、軍談稗史小説類である。はじめに読んだのは俊寛(?~一一七九。平安後期の真言宗の僧)が鬼界ケ嶋に流された物語であった。当時小説として世上に流布されているのは、京伝、種彦、滝沢馬琴(曲亭馬琴。一七六七~一八四八)の作品であったが、栄一は馬琴の作品をことに好んだ。

物語の展開が奇々怪々で、勧善懲悪の意をふくませているので、非常におもしろく引きこまれる。

『通俗三国志』『里見八犬伝』などは三回、四回とくりかえし読む。美少年錦、お俊伝兵衛、三勝半七なども読んだ。『三国志』、『漢楚軍談』、『呉越軍談』などにはことのほか熱中し、登場する諸葛孔明(一八一~二三四)、劉備玄徳(一六一~二二三)、関羽雲長(?~二一九)、張飛益徳(?~二二一)、曹操(一五五~二二〇)、玄徳らの英雄豪傑にあこがれ、自分が彼らの仲間に加わったかのように、肩をそびやかして歩いた。

栄一は父方の従兄で、藍香の弟である尾高長七郎、渋沢喜作とともに遊び、成長していった。喜作は栄一の父の生家の息子であった。

栄一の幼時、独楽をまわすか、夏には淵で水泳ぎをするくらいで、娯楽がすくなかったが、闘犬を飼うことが流行していた。強そうな犬を飼って、村じゅうの子供を連れ、隣村の犬と喧嘩をさせるのが、おもしろくてたまらない。

栄一が十四、五歳の頃、犬の嚙みあいにこのうえなく興味を持ち、隣村の闘犬と勝負をさせた。隣村の阿賀野村の百姓が、黒と呼ぶ逞しい闘犬を飼っていた。耳が逆立ち、尻尾がキリキリと捲きあがり、漆黒の毛並みは油を塗ったようになめらかで、眉間のところに一点の白毛が星のように際立っている。

黒は附近の諸村の闘犬と戦い、負けたことがない。栄一の愛犬も黒の敵ではなかった。

「くやしいなあ。怨み骨髄だぜ」

栄一はなんとかして自分の犬を黒に勝たせたいと思っていたが、そのうちに愛犬が病死してしまったので、気を落した。

そこへ熊五郎という、渋沢家の古い分家の息子がきてすすめた。

「坊、犬が死んじまったから、こんど飼う犬は、いっそのこと黒にすりゃいいなあ」

熊五郎は栄一より五、六歳年上であるが、闘犬が好きで、栄一につきそい、犬の嚙みあいに諸村を駆けまわってきた。体格も頑丈で、頼りがいのある少年である。

栄一は首をかしげた。

「黒をくれりゃいいが、銀蔵さんとかいう飼主が、手離すはずはなかろうに」

「いや、おれにはいい考えがある。さあ、いっしょにいきやしょう」

栄一は藍の蒸れるにおいが藍蔵からただよい、庭のさるすべりのはなびらが音もなく散る真夏の昼間、貯めていた小遣いを握り、熊五郎とともに隣村の銀蔵の家へ走った。飼主の銀蔵は、熊五郎のいった通り、栄一のさしだすわずかな礼銭で、黒を手離すことを承知した。


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