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〈あの絵〉のまえで #2
そんな亜季は、なかなか就職が決まらずにじりじりと焦れる私をただなぐさめるだけでなく、できる限り有効かつ本音のアドバイスをしてくれた。
「結局さあ。どっこも決まらなかったら、アルバイトでつなぎながら就職浪人するしかないよ。でも、今年ダメで来年オッケーってとこがあるかといえば……」
「ない」と亜季に言われるまでもなく、私は自分で断言した。
「そ。ない」亜季がだめ押しをした。私は大きなため息をついた。
「大企業ばっかりじゃなくて小さいとこも受けてるよ。でも決まらないんだよ。なんでだろう。ほんと、なんでかな?」
私は半べそをかいていたんじゃないだろうか。亜季が「そんな顔しないでよ、幸運が逃げるよ」と苦笑した。
「とっくに逃げられてるよ」
自暴自棄になって、私は言い捨てた。ほんとうに泣きたかった。
うちは母子家庭だったが、そのこと自体をうらめしく思ったことは一度もない。母はせっせとお好み焼きの店「広さん」で働いて私の学費と生活費を捻出し、大将の広さんに借金を頼み込んで大学の入学金を工面し、なけなしの貯金を全部はたいて東京への引っ越し費用を作ってくれた。
私は賃料月三万円の学生専用のアパートに入居し、スーパーのレジ係と喫茶店のウェイトレスのアルバイトを掛け持ちして、母からの月五万円の仕送りと合わせて、節約しながらなんとか三年半を過ごしてきた。もちろん奨学金はもらったけど、すべて学費に充てた。
お金のことではずいぶん母に苦労をかけたし、自分も苦労をした。だから、できるだけ安定した会社に就職し、母に楽をさせてあげたかった。就職後には広さんからの借金は自分で返すと母に約束していた。それに、奨学金も返済しなければならなかった。とにかく、私には、すでに背負っているものが色々あったのだ。
数撃ち作戦で、あらゆる一部上場企業にエントリーした。当時はインターネットがようやく一般的になってきた頃だったが、私は自分のパソコンなど持っているはずもなく、ネットでエントリーなんてできなかった。だから、資料請求して履歴書を郵送するのが基本。手が腱鞘炎になるんじゃないかというほど、書いて書いて書きまくった。でも、返事をもらえたところはほとんどなかった。
少し小さめの企業にもエントリーした。会社訪問くらいはできた。でもやっぱり、入社試験を受けるところまでいけるのはほんの二、三社。面接までいったのはゼロ。全滅だった。
「何が悪いのかなあ。顔かなあ、頭かな。そのどっちもかな」
なおも自虐的に私はボヤいた。亜季は半分呆れて、
「そんなことないってば。ただ、あれかな。夏花んちってさ、お母さんだけでしょ」
と、何気なく言った。
私は、たちまち自分の顔が強ばるのを感じた。亜季は、「あ。でもま、そこんとこは別に関係ないよね」とすぐに前言撤回した。
「ね、夏花の内定出たら、広島に遊びに行っていいんだよね。あたし、広島って修学旅行で行っただけだから、すっごく楽しみ」
ふたりとも就職先が決まったら、秋の連休を使って国内旅行をしようと決めていた。広島、山口あたりへ行こうと亜季が言い出して、早速ガイドブックを買い集めて旅行の計画を立て始めた。正直、私のほうは旅行の計画どころではなかった。
亜季が心底うらやましかった。それまでに、そんな感情を抱いたことはなかったけれど、初めて「ねたましい」と思った。
すてきな両親がいて、東京に実家があって、何不自由なく育って、彼氏がいて、おしゃれで、スマートで、明るくて、とっくに内定もらってて。私がもっていないもののすべてをもっている亜季。亜季にはなくて、私がもっているものって、なんだろう。学芸員になる夢──くらいだろうか。
だけど、その夢すら、とっくにあきらめてしまったのだ、私は。
*
その年の八月六日、朝。
「ああっ、しまった!」
東京の外れにある小さな製造会社の面接に向かう電車の中で、つり革につかまって『面接に成功するコツ読本』を片手で広げていた私は、突然大声を出してしまった。
車内の視線がいっせいにこっちを向いた。私はあわてて首をすくめた。平静を装ったつもりだったが、心臓が胸から転がり落ちそうなほどバクバクして、気が動転してしまった。
八月六日は母と私にとって、とてもとても大切な日。広島の「原爆の日」であり、母が私を産んだ日。つまり、私の誕生日。
毎年欠かさず、朝、母と私は平和記念公園へ出向き、原爆死没者慰霊碑に向かって手を合わせた。
私が生まれたのは、三十二回目の原爆の日。母が二十二歳のときのことだ。
ものごころがついてからは、この日が自分の誕生日であることに複雑な思いでいた。喜んではいけないような気がした。けれど、毎年、母は、慰霊碑への祈りを済ますと、にこっと笑って私に言った。
──夏花、お誕生日おめでとう。生まれてきてくれて、ほんまに、ありがとう。
そして、その日ばかりは夜更かしして、私は母の帰りを待ちわびた。いつも「広さん」のお好み焼きと特大のショートケーキを持って帰ってきてくれたから。
大学生になって上京してからも、この日は広島で迎えた。二十歳の誕生日は、「広さん」で初めてビールで乾杯した。お好み焼きとビール、合わせるとこんなにおいしいとは! とすっかりビール党になってしまった。
残念ながら、好きな人と迎えたことはまだ一度もなかった。それでも、底抜けに明るい母と、「広さん」の仲間たちと、帰省中の友人たちと一緒に迎える誕生日は、楽しく、うれしく、幸せだった。
それなのに──。
就職が決まらない、と私は毎週母に電話してぼやいていた。母が月に一度送ってくれる仕送りの現金書留の中に必ずテレホンカードと翌月の勤務のシフト表が入っていた。それを確認して、母が休みの日には必ず電話をした。東京と広島をつなぐ電話は瞬く間にカードの残数が減ってしまう。だから長話はできなかったけど、早く就職先を決めたい、だから夏休みもそれが決まるまで帰れないと、早口で母に告げた。母は、ふんふん、とひと通り私のぼやきを聞いてから、決まって明るく言うのだった。
──焦りんさんな、そのうち決まるけん。大丈夫じゃて。
そう言われると、そうかなあ、とほんの少し安心するのと同時に、お母さんにはわからんよ、就職活動したことないんじゃけえ、と反発する気持ちも頭をもたげるのだった。
……にしても。
必死に就職活動をするあまり、自分の誕生日のことなんかすっかり忘れていた。母も遠慮したのか、つい三日まえの電話では、「帰っておいで」とはひと言も言わなかった。
──大事な日なのに。何やっとるんじゃろ、あたし。
その日の面接は上の空だった。一礼をして面接室を出たとき、もうだめだ、と泣き出しそうになった。たまらなくなって、そのまま、東京駅へ向かった。
毎月五日に支給されるアルバイト代が銀行口座に入っていた。それを引き出して片道の学割切符を買い、広島行きの新幹線に乗り込んだ。車窓を流れゆく風景は、高層ビルの森から青々とした稲田に移り変わっていく。頭の中は空っぽで、そよとも風は吹き抜けなかった。
広島駅の改札を出ると、いっぱいの茜空が私を迎えてくれた。お正月に帰省して以来、七ヶ月ぶりのふるさとだった。
広島にとって特別なこの日、おごそかな空気が街を満たしていると感じるのは、私ばかりではないはずだ。広島に暮らす多くの人たちが、この夏のいちにちの濃い空気を共有しているのだ。私は子供の頃からこの日の空気を敏感に感じ取って、なんとなく背筋が伸びる気持ちがしたものだ。そして、私の母は、いつもこの日を母娘ふたり、無事に迎えられたことを喜ぶのだ。
私はまっすぐに「広さん」へ向かった。店は広島市の中心地にある繁華街・新天地にある。夕方六時の開店前には行列ができ、夜八時過ぎまで行列が途切れることはない。その日もすでに十人ほどが店のまえに列を作っていた。
中学生になってからは、よっぽどのことがない限り勤務中の母を訪ねることはなかったが、誕生日だけは特別で、閉店間際にのれんをくぐった。すると、待ち構えていたように、母が、ほい来た! と笑顔を投げてくる。そのボールはすとんとまっすぐに私の胸のミットに収まった。続いて広さんが、なっちゃん、お誕生日おめでとう! と叫び、ハッピー・バースデー! とスタッフ全員、声を合わせて、拍手で出迎えてくれるのだった。私は照れくさく、でもうれしく、肩をすくめて、いっぱいの笑顔の中へ入っていく。それが私の誕生日のいつもの風景だった。
私は行列の最後尾に並んだ。暑い夏のいちにちの終わり、宵風がのれんをかすかに揺らしている。のれんの中からはなつかしい熱気があふれ出ていた。
三十分ほどして、私はようやく入り口のまえに立った。のれんの隙間から店内の様子がうかがえる。長いカウンター席、奥にテーブル席がある。お客さんたちはビールを酌み交わし、お好み焼きをつついている。おいしそうな顔、楽しそうな顔。はじける笑顔。どの顔も幸せそうだ。
カウンターの中では、大将の広さんがどんどんお好み焼きを焼いている。そしてその隣の母。焼きあがったお好み焼きを次々にお皿に載せ、鉄板をきれいにし、具材を準備する。「はい、一番さん上がり!」「はいよ、一番さん!」と、広さんとの掛け合いもテンポよく、てきぱきと立ち回っている。
母は色黒で頬骨がくっきり、化粧っ気もゼロ。全然美人じゃない。よれたシャツは汗だくで、貧相な体に張り付いている。遠目に見ると、まるでおっさんみたいだ。それでも、母の笑顔は不思議にまぶしかった。
どうしてだろう、ふいに涙がこみ上げた。私のまえに並んでいた人がのれんをくぐったとき、私はくるりと向きを変えて走り出した。
色とりどりのネオンがともる小路を走りながら、涙があふれて止まらなくなった。子供のようにしゃくりあげ、腕で顔をごしごしこすって、涙と汗でメイクが落ちてしまった。
通りすがりの酔っ払いが「お嬢ちゃん、何泣いとるん?」と声をかけてきた。「うるさい!」とどなり返すと、「おお、こわっ」とビビられてしまった。
生ぬるい夜の街をふらふらと歩き回った。のどが渇いて仕方がなかった。
がらんとしてひまそうな居酒屋をみつけて、入ってみた。生まれて初めてひとりで居酒屋に入り、生まれて初めてひとりで生ビールを注文した。
乾杯、と声には出さずに、ごきゅごきゅとのどを鳴らして飲んだ。そこでようやく落ち着いた。
◇ ◇ ◇