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元気なうちに考えておきたい「自分は死んだらどうなるのか?」 #2 「ありがとう」といって死のう

いつか誰にでも訪れる「死」。いざというときジタバタしないために、死とはどういうものなのか、どうすれば穏やかに逝くことができるのか、元気なうちに考えておきたいものです。終末緩和医療の最前線で働くシスター、髙木慶子さんの『「ありがとう」といって死のう』は、死を考えるうえでの座右の書になりうる一冊。髙木さんが看取ってきた人たちの実話に、思わず涙がこぼれる本書、その一部を抜粋してお届けします。

*  *  *

死んだら無になると考える日本人


みなさんは、自分が死んだらどうなると思いますか。これから五つ選択肢を挙げますので、その中から自分の考えに一番近いものを選んでください。

(1) 死んだら無になると思う。
 
(2) 死んでも無にはならない。何かが残る。だけど、それが何かはわからない。
 
(3) 自分は何かに生まれ変わると思う。
 
(4) 天国とか極楽とか、自分がイメージしている世界に行くと思う。
 
(5) 大自然に溶け込んでいく。

 
この五つです。
 
最後の「大自然に~」は、三番目の「生まれ変わる」とは少し意味が違います。大自然に溶け込んでいくというのは、たとえば「分子になってしまって自然の一部になる」といった意味です。
 
あなたはどれを選びますか? 順番に意味はありません。一生懸命に考えようとはせず、今まであなたが考えてきたことに一番近いと思うものを選んでください。
 
いかがでしたか?
 
私はこうした質問をときどき講演会で行うのですが、一番多いのは「無になる」と思っている人です。これは私の講演を聞きに来られた方に限った話ではなく、日本人には「無になる」と考えている人が大多数のようです。

自分の死に深く向き合ってみよう


以前、大きな企業の取締役会で話をしてくださいと頼まれ、その際にも同様の質問をさせていただきました。

「自分がイメージしている世界に行くと思う」とお答えになった方が数名いらっしゃいましたが、やはりほとんどの方が「無になる」とお答えになりました
 
質問は、誰がどこに手を挙げたかがわからないように、目をつぶって下を向いた状態で行うのですが、他の人がどう考えているかが気になったのでしょう。
 
講演のあと、「無になる」と答えた副社長が、部下の専務に向かって「なんでおまえは、天国とか極楽に行くというところで手を挙げたんだ」とおっしゃいました。
 
私はそれを聞いてびっくりして尋ねました。
 
「そういうあなたはどこに手を挙げたんですか?」
 
その方は、その場にいた全員が「無になる」に手を挙げると思い、ご自身もそうされたそうです。ところが薄く目を開けてすぐ横を見ると、部下の専務は、最初の「無になる」には手を挙げず、四番目の「天国とか極楽~」に挙手するではないですか。

「いったいどういうことなんだ」と不思議になり、ずっと気になっていたとおっしゃいました。
 

実は、質問の狙いはそこにあります。私にとって「誰がどこに手を挙げたか」ということは大きな問題ではありません。
 
大切なことは「自分がどこに手を挙げたか」という記憶が本人の中に残ること
 
たとえば「自分は『無になる』に手を挙げたけれど、果たして本当にそうなのだろうか」とご本人に考えていただくためです。
 
他人がどう考えているかを知るためではなく、自分が死後の世界をどのようにとらえているかを自身に問うためのものなのです。
 
多くの日本人が「死んだら無になる」と考えています。それはおそらく死と向き合いたくないから、自分の死について深く考えたくないからでしょう。「死=無」としてしまえば、それ以上に考えなくてすみますからね。
 
またそれは、私たちの体に「生きたい」というDNAが刻み込まれていることを考えれば、至極当然の反応です。
 
しかし、これまでに一度も死と向き合ったことがない人は、死が間近に迫った時に慌てふためくことが多くあります。

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「ありがとう」といって死のう

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