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#2 パパはもう帰ってこない…深海を舞台にした冒険小説!

幼い頃に別れた父の言葉に導かれ、潜水調査船のパイロットを目指す深雪。ところが閉所恐怖症になり、叶いかけた夢は遠のいてしまう。失意に沈む深雪の前に現れたのは、謎の深海生物〈白い糸〉を追う男・高峰だった。反発しあう二人だが、運命はいつしか彼らを大冒険へといざない……。『海に降る』は、壮大かつ爽快な長編冒険小説。その冒頭を少しだけご紹介します。こんなご時世だからこそ、広い世界へ想像を羽ばたかせてみませんか?

*   *   *

「あの子、誰ですか」

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「天谷さんの弟さんじゃないのかい。本人がそう言ったんだがね」

「私、ひとりっ子ですけど」

私が言うと、参ったな、と守衛さんは頭をかいた。

「ちょっと待ってて。受け付けした時、来客者カードに電話番号を書かせたから」

守衛さんは守衛室にひっこんだ。保護者に連絡してくれるらしい。

トラックが通り過ぎるのを待って、私は道路を渡り、少年のそばに歩み寄った。

「こんにちは。私を呼んだみたいだけど、君はいったい何者なのかな」

少年は、私の頭のてっぺんから爪先まで電子ビームのような視線を素早く走らせた。それからやっと質問に答える。

「北里陽生」

北里は父の姓だ。それではこの子は父方の親戚なのかと考えている間に、陽生は胸ポケットから定期入れを取りだし、写真を一枚抜いた。そして私の胸の前へ突きだした。

「パパとママだよ」

海外で撮った写真らしかった。海を背景に撮られたその写真には、陽生と、見知らぬ女性と、それから無精髭を生やした男性が写っていた。

「君のパパって……」

「北里厚志」

陽生が、父の名前を発音するのを、私はぼんやり聞いた。

守衛室前の停留所に駅から来たバスが停まり、職員が何人も降りてくる。挨拶を交わすいくつもの声を聞きながら、私は写真に目を落としたまま黙っていた。十五年も前に渡米した父が向こうで再婚したことは母から聞いている。しかしこんな大きな息子がいたなんて知らなかった。

「パパも日本に帰ってきたってこと?」

「おばあちゃんの具合が悪いから、ママとふたりで鎌倉の家に来ただけだよ。パパは仕事があるからアメリカにいる」

なんだ。帰ってきたわけじゃないんだ。私は自分の声がぞっとするほど冷たくなっているのを感じながら言った。

「どうしてここに来たの」

陽生は答えない。黙ってうつむいている。

守衛さんは彼がひとりで来たと言っていた。今日は平日だから学校をサボって来たのかもしれない。

「私、もうすぐあの船に乗って出港しなきゃいけないんだよね」

私は〈よこすか〉を指して言った。

「大きい船でしょう。〈よこすか〉って言って〈しんかい六五〇〇〉の母船なんだ。〈しんかい六五〇〇〉、知ってるかな。パパが造った潜水調査船だよ。私はそのパイロット候補なの」

「知ってる」

陽生は、はねつけるように言った。

「今、連絡取れた。母親が迎えに来るそうだよ」

守衛さんがこちらに向かって大声を出した。それを聞いて、陽生がかすかに身じろぎした。

「ママ来るって。それにしてもよくここがわかったね」

「手紙に書いてあった。住所はネットで調べた」

手紙か、と私はつぶやいた。両親が離婚してしばらく、私は母に隠れて父に手紙を書いていた。ここに就職が決まった時も、もちろん知らせた。調査能力が高いんだね、君、とつぶやくと陽生は顔をあげた。

「パパへの手紙に書いてたでしょう。いつか日本に帰ってきて世界で一番深い海に行く船を造ってねって」

「ああ、うん、書いたかな」

父からは一度も返事がない。就職を知らせて以後は、私も手紙を出すのをやめてしまった。

陽生は私の顔をじっと見つめていたが、

「パパ、もう日本に帰ってこないと思うよ」

そう言うなり身を翻した。ランドセルを鳴らしながら走っていく。

守衛さんが驚いて後を追ったが、見失ってしまったらしい。「やれやれ」と言いながら戻ってきて守衛室に入っていった。母親にまた連絡を取るんだろう。

岸壁の方から神尾さんの呼ぶ声がした。こちらに向かって右手を大きく振っているのが見える。出港の時間が来たのだ。

でも私は動けなかった。お腹に湧いてくる泡が飲みくだせないほど大きくなって喉に上がってくるのがわかった。

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「よこすか、しんかい、各部異常なし、潜航用意よし」

無線機に呼びかける神尾さんの声を聞いて、はっと我に返った。

出港前の出来事を思いだして、上の空になっていたらしい。

耐圧殻の壁にびっしりと並んだ計器にいそいで目を走らせ、頭の中で手順をさらい直す。

チェックリストに従って次々に電源を入れながら左を窺うと、多岐司令が射るような目で私の手元を見ているのがわかった。ぼんやりしていたのを見抜かれたかもしれない。一気に緊張した。

「聞いているか、天谷」

神尾さんがきつい声で私に呼びかける。しまった。多岐司令の顔色が気になって、母船との通信が耳に入っていなかった。

「すぐ近くの海域で地震だってよ。たいしたことないらしいが、注意だけはしておけ」

はい、と頷いて、私はバラストタンクのベント弁のスイッチに手を伸ばした。

ベント弁が開き、海水の注入がはじまった。船体が重くなるのと同時に体が下に落ちる感覚がしてくる。耐圧殻をくりぬいてはめられた、アクリル樹脂性の分厚い覗き窓の外に白い泡がたち、すぐに海中の景色に変わる。異常はない。船は垂直に海の底へ下降していく。

潜航開始だ。私は張りつめていた肺の中の空気を吐きだした。

今回の潜航地点は深さ三〇〇〇メートル。これまでの訓練の中で最も深い。深海では、陸上の数百倍にも及ぶ大水圧が待ち受けている。耐圧殻に少しでも亀裂が入れば、私たちは押しつぶされてしまう。

亀裂が入れば。

頭が混乱した。何を考えているんだろう。亀裂なんか入るわけない。

私が乗っているのは〈しんかい六五〇〇〉の耐圧殻だ。

十五年前、父も言ってたじゃないか。耐圧殻の中にいさえすれば、何も心配することはないって。

「天谷! 天谷!」

大声で呼ばれて右を向くと、神尾さんが険しい目をしていた。

「どうした、顔色が真っ青だぞ」

左を向くと、多岐司令までもが私を見ている。

その顔がぐにゃりと歪んだ。

おかしい。どうしたんだろう。息が苦しい。肺がつぶれるみたいだ。首筋に汗がにじむ。落ち着け。冷静になれ。この船は安全だ。建造されて二十年以上、事故を起こしたことなんてない。そう教わったじゃないか。悪い想像をしちゃ駄目だ。別のことを考えなきゃ。

――パパ、もう日本に帰ってこないと思うよ。

陽生の声が、脳にぬるりと滑りこんできた。

いつか必ず帰ってくる。そう約束したのに、十五年たっても父は帰らなかった。これからもきっと帰ってこない。やっぱりそうだったんだ。

何も心配することがないなんて、嘘ばっかり。

耐圧殻の中で、多岐司令も神尾さんも私も、つぶれる。

「天谷、落ち着け、しっかりしろ!」

多岐司令の声が遠くで聞こえた。

「よこすか、しんかい、緊急事態発生、潜航を中止し、直ちに浮上する!」

水中通話器に向かって叫ぶ神尾さんの声が聞こえた次の瞬間、私は多岐司令の力強い手で、耐圧殻の床に組み伏せられていた。


「それで、なんで預かることになるのよ、その異母弟を」

眞美があきれた顔で言った。

テーブルの向かいで飲んでいた多岐司令と神尾さんが、ちらりとこちらを見る。

〈しんかい六五〇〇〉運航チームの宴会はおひらきを迎えようとしていた。隣の個室で歓迎会をやっていた広報課の職員もいつの間にか混ざりあって座っている。眞美も、当初こそ広報課の席で皆川理事にビールを注いでいたが、私を見つけるや否や、何か言いたげな顔で移動してきたのだ。

大声で言わないでよ、と私は顔をしかめた。

「しょうがないじゃない。なんか、すごい追いつめられてたみたいだし」

航海から帰ってきた私は、陽生の母、真理子さんの訪問を受けた。真理子さんは清楚で古風な感じのする女性だった。子供がいるとは思えないほど若く見えたが、母親の看病をしているせいだろうか、どことなくやつれた顔をしていた。

「あの子、不登校なんです」

真理子さんは言いづらそうに私にあの日のことを説明した。

不登校はアメリカの小学校に通っていた時からだそうだ。友達とのトラブルが原因らしいが、何があったのか一切話さないのだという。日本に帰国してからは、こちらの小学校にしばらく真面目に通っていたが、数週間もしないうちにまた行かなくなった。

追い打ちをかけるように陽生の祖母が入院した。ろくに口もきかず、ふさぎこんでいる孫の存在がストレスになっていたのかもしれない、と真理子さんは言う。

陽生が横須賀本部をひとりで訪ねてきたのは、その翌日だった。

あの日は珍しく登校すると言ったので、制服を着せて送りだしたのです、まさか深雪さんのところに行くなんて、と真理子さんはしきりに謝った。

――ミユキの家からだったら学校に行ってもいい。

横須賀本部から帰ってきた陽生は、真理子さんにそう言ったらしい。

「だからって、前妻の娘に預けるかな、自分の息子を」

眞美は非難するように言う。

「学校にちゃんと行くようになるまでだって。航海に出る時は帰してくださいって言われた。どうせ私はしばらく陸に置き去りだし」

「私は反対だな。人の心配している場合じゃないでしょ、あんたは」

眞美はあきれた顔をして、キンキの開きを箸で乱暴につつく。

私は中ジョッキをあおった。そんなこと言われなくてもわかっている。

五回目の訓練潜航の最中に、私はパニックに襲われた。耐圧殻がつぶれるのではないかという恐怖で息ができなくなったのだ。

耐圧殻は内径わずか二メートル。パイロット、コパイロット、研究者の三人が膝を抱えて乗りこむのがやっとだ。あまりの狭さに圧迫感を覚える人もいるらしいが、私はまったく平気だった。あの瞬間までは。

ここから出してと暴れた私は取り押さえられ、訓練潜航は中止。船はただちに浮上して揚収され、三十分後には上部ハッチが開かれた。

潜入して二分後、深度にしてわずか数十メートルだったからよかったようなものの、これが二〇〇〇メートルとか三〇〇〇メートル級の深海で起きていたら、どうなっていただろうか。

多岐司令は私に病院にかかるように命じ、完全に治るまで〈しんかい六五〇〇〉だけでなく、〈よこすか〉への乗船をも禁じた。

早く復帰したいと焦る私に医師は、閉所恐怖症かもしれませんねえ、とのんきに言った。投薬は効かない。心因性のものなので原因が取り除かれなければ治ることはないでしょう、と。


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