二人だけの朝食…疲れた心にやさしさが染み入る感涙小説 #2 虹の岬の喫茶店
小さな岬の先端にある喫茶店。そこでは美味しいコーヒーとともに、お客さんの人生に寄り添う音楽を選曲してくれる。その店に引き寄せられるように集まる、心に傷を抱えた人々。彼らの人生は、その店との出逢いと女主人の言葉で、大きく変化し始める……。
『ふしぎな岬の物語』のタイトルで映画にもなった、森沢明夫さんの小説『虹の岬の喫茶店』。疲れた心にやさしさが染み入り、温かな感動で満たされる……。そんな本作から、第一章「《春》 アメイジング・グレイス」をお届けします。
* * *
二人のおそろいのカップは、陶芸作家である私が焼いたものだった。作家といっても、作品の売り上げよりもむしろ陶芸教室の講師としての収入で生活をしているような、中途半端なクリエイターなのだが、好きな土いじりだけでなんとか家族を養えていることを思えば、それはとてもありがたいことに違いなかった。世の陶芸家の多くは、副業で生活を成り立たせているのが現状なのだ。
小枝子は、このおそろいのカップに名前をつけていた。
彼女がまだ妊婦だった頃に、私は千葉県の外房にある鴨川シーワールドに連れて行ったのだが、そのときにシャチをいたく気に入った彼女を見て、私は後日、こっそりと白と黒のシャチ柄のカップを焼いた。そして、彼女の誕生日にそれをプレゼントした。すると小枝子は「わぁ、パンダのカップだ」と破顔し、それからそのカップを「パンダ」と呼ぶようになったのだ。私が正直に「これ、シャチのつもりで焼いたんだけどな」と告白しても、小枝子は「どう見てもパンダだよ」と微笑して、さっそくコーヒーミルで豆を挽きはじめたのだった。
以来、二人でコーヒーを飲むときは、いつもこの「パンダ」を使っていた。高台の径が大きいから、どっしりと安定感があるし、持ち手も実用一点張りで大きめに作ってある。本体を肉厚にしたことで、コーヒーは冷めにくく、唇を火傷することもない。あまり品のいいデザインではないかも知れないけれど、日用品としては過不足のない、使い勝手のいいカップには違いなかった。
私は、その「パンダ」に再び口をつけた。
コーヒーはいい味だった。でも、今朝は少しばかり、いつもより砂糖を多く入れたいような気分でもあった。
なあ小枝子、天国に行ってもコーヒーは飲めるのか?
遺影を眺めながら、私は胸の奥でつぶやいてみた。
四時を回ると、テレビ画面に若い女子アナウンサーが三人並び、朗らかな笑顔を振りまいた。ようやく通販番組が終わって、ニュース番組が始まったのだ。
真ん中に立つメインキャスターが、冒頭で「さあ、今日からいよいよゴールデンウィークが始まりましたね」と、さも嬉しそうに微笑んでみせた。そして、昨夜からの帰省ラッシュや高速道路の渋滞情報などを伝えはじめた。
今年のゴールデンウィークは大型で、多くの企業は九連休だった。私の陶芸教室も連休中は休講にしてあるし、もちろん希美の幼稚園もその間は休園だ。もしもイベント好きな小枝子が生きていたなら、この連休のスケジュールはすでにぎっしりだっただろう。あまりお金をかけず、なおかつ、子供も大人も楽しめるアイデアを小枝子は星の数ほど持っていたのだ。
昨年は、新設の動植物園に行って希美をポニーに乗せたり、公営のプラネタリウムで満天の星を眺めたりした。また、近所の海浜公園のフリーマーケットに出店し、そこで私の作品を売りさばいて、ちょっとした小遣い稼ぎもした。さらに、その売り上げを元手に回転寿し屋の暖簾をくぐった。希美は好物のマグロとイクラをたらふく食べたあとに、プリンとメロンまでたいらげて、小枝子と私を驚かせたのだった。帰りの夜道は、三人で手をつなぎながら歩道をのんびりと歩いた。途中、出来過ぎたドラマのなかの家族のように、夫婦で娘の左右の手を引き上げてブランコをやった。自宅マンションの近くの薄暗い路地に入ると、希美は夜空でいちばん明るい星を見つけて「いちばん星、みぃつけた」と歌ったので、私が「いちばん明るい星じゃなくて、いちばん最初に光り出した夕方の星のことを、いちばん星っていうんだよ」と教えたのを思い出す。
小枝子のいない今年の連休は、どうしたものだろう――。
ぼんやりと思案しながら、私はキッチンに立った。そして、冷蔵庫から牛乳と卵を取り出した。とりあえず、希美の好物のひとつ、シナモンシュガーのフレンチトーストを作ってみるつもりだった。
◇
哀しいくらいに出来の悪い朝食をテーブルに並べ終え、リビングにゴロンと横になってテレビを眺めていると、廊下にぺたぺたと小さな裸足の足音が響いた。希美が起きてきたのだ。
「希美、おはよう」
私は身体を起こして笑顔を作ってみせた。
「パパ、おはよう……」
リビングの入口に立って半分寝ぼけたような声を出すと、希美は両手の甲でまぶたをこすり、室内をゆっくりと見回した。無意識に、小枝子を探しているのだ。その幼くて正直な視線がサイドボードの上の遺影に留まりそうになった刹那、私は少し慌てて声を出していた。
「希美、おいで」
言いながら、娘に向かって両手を伸ばす。自分の顔に取って付けたような笑みが浮かんでいるのが、自分でもよく分かった。
しかし、希美はすでに遺影に目を留めていた。突っ立ったまま寝ぼけていた顔に、じわじわと現実の色を広げていく。
私はもう一度、娘に声をかけた。
「おいで。ほら、抱っこ」
ようやくこちらを振り返った希美は、少し足早に歩み寄ってくると、あぐらをかいていた私の首に両腕を巻きつけるようにして抱きついてきた。
私は娘の身体を受け止め、きゅっと抱きしめたあと、小さな背中をぽんぽんと叩きながら髪の毛の匂いをかいだ。
「シナモンシュガーのフレンチトースト、パパ作ったよ。メープルシロップをたっぷりつけて、一緒に食べよう」
希美は「うん」と小さく返事をして、私の胸に鼻をこすりつけるような仕草をした。私は黙って娘の背中をぽんぽんと叩き続けていた。やがて、希美は顔をあげると、私よりも数段器用な笑顔を作って、こう言った。
「ねえ、ご飯たくさん食べたら、絵本の『ミミっち』読んでくれる?」
「うん。いいよ。ちゃんと食べたらね。じゃあ、まずは顔を洗って、歯を磨いちゃおうか」
希美は「うん」とうなずき、洗面所へと歩き出した。
私はその背中をぼんやりと見送っていた。すると、すぐに洗面所で不平の声があがったのだ。
「パパ、来てよぉ」
ハッとした私は、慌てて立ち上がりながら答えた。
「あ、そっか。ごめん、ごめん」
そうだった。希美はまだ洗面所の蛇口に手が届かないのだ。私は希美の身体を抱え上げて、蛇口の方に頭を近づけてやった。
「はい、どうぞ」
「駄目だよ。まだ、お袖をめくってないよ」
抱えられた希美が、やれやれといった顔をする。
「あ、そうか。ごめん」
「最初はタオルを出すんだよ。それから、お袖をめくって、お水を出して、お湯になってから抱っこして、お顔を洗うんだよ」
それが、小枝子と希美の毎朝のパターンだったのだろう。
「分かった。えっと、タオルはこれか?」
「うん、そう。それを洗濯機の上に置いておくの」
希美は説明をしながら、自分でパジャマの袖をめくり上げ、「お湯は熱くしないでね」と注文をつけた。
「はい、了解」
私は兵隊の敬礼の格好をして、おどけてみせた。
「パパ、先にガスのスイッチ入れてね。じゃないと、お湯が出ないから」
「そちらも了解!」
希美が私を見て、ちょっと微笑んだ。
抱きかかえて、蛇口から出てきたお湯に触れさせた。
「お姫様、お湯の熱さはこれくらいでよろしいでしょうか?」
「もっとぬるいのがいい」
「これくらい?」
「うん」
希美は不器用な手つきでお湯をすくって、三回顔を洗った。
「パパ、早くタオル」
目を閉じたまま、希美が手を出す。
「はい、どうぞ」
ごしごしとタオルで顔をこすった娘が、私を見上げた。
「ぴっかぴかになった?」
小枝子はここで何と答えていたのだろう。きっと、気の利いた台詞を言って希美を微笑ませていたに違いない。
私は――自分流で返事をすることにした。
「うん、チュウしたくなるくらい、ぴっかぴかだよ」
私はしゃがんで娘の頬にブチュッとキスをした。
「わあぁ。ママはチュウじゃなくて、ほっぺをくっつけるだけだったよ」
希美がくすぐったそうに言う。
「そっか。でも、パパのやり方はチュウなの」
「どうして?」
「希美が可愛いからだよ」
きっと、これから、こんなふうにして、私と希美の生活パターンが少しずつ形作られていくのだろう。
「歯磨きは? ママのやり方でやってくれる?」
「もちろんいいよ。じゃあ、ママがどうやっていたのか、パパに教えてくれるかい?」
「うん。えっとね、最初はね……」
小枝子流も、しっかり残していこうと思った。希美がこの世に生まれてからの四年間、小枝子が一心に注いだ愛情の記憶が、将来、少しでも多く希美の胸に残り続けるように。
着替えを済ませ、洟をかませ、「痛い、痛い」と文句を言われながら髪の毛を梳かしてやると、ようやく私と希美は向かい合ってテーブルにつくことが出来た。そして、仲良くそろって「いただきます」を言ったまではよかったのだが、そこで希美の手にしたフォークがピタリと止まってしまったのだった。
「ん、どうした?」
二杯目のコーヒーを自分の「パンダ」に注ぎながら、私は首をかしげた。
「ねえパパ、これ、フレンチトースト?」
「そうだよ。ちゃんとシナモンもかけたし、メープルシロップもたっぷりかけたよ」
「なんか……」希美は眉毛をハの字にして、こっちを見上げた。「色が、いつものと違うけど」
「え?」
「こんなに茶色くないよ。ママが作ると」
「あれ、そうだっけ? でも、味は美味しいと思うよ」
何しろ、焦げてしまった失敗作は自分の皿に載せて、成功したはずのものを希美の皿に載せたのだ。
「パパのは、もっと茶色いけど……」
「大丈夫だって。ちょっと焦げたくらいなら、かえって香ばしくて美味いんだから」
私は自分の皿のフレンチトーストをパクリと食べてみせた。が、しかし、「ほら、大丈夫」とは言い難いほどの味だった。
「あ……あれれ。希美の言う通り、ちょっとだけ苦いかな。でも、シロップをたっぷりかければ、平気だよ」
「ふぅん……」
今度は希美が小さく切ったフレンチトーストの欠片を口にした。恐るおそるといった感じで咀嚼する娘の背後を見ると、小枝子の遺影が微笑みかけてきた。なんだか「しっかりしてよ、あなた」と苦笑しているようにも見える。
◇ ◇ ◇