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恋する殺人者 #1

“しかと見極めるが良い
そなたの目を曇らせている物の正体を”

J・K・イーストレイク

『その猫はしばしば危険』(天野蛾尊・訳)より

「でもね、高文たかふみくん、真帆子まほこちゃんのあれは事故だったって話じゃないの」

牧京香まききょうか先生はそう云って、首を傾げた。

「この前来た警察の人もそんなふうな口ぶりだったし、新聞にも事故の可能性が高いとか何とか書いてあったでしょう」

「あくまでも可能性ということだけです。警察だって正式に断定したわけじゃないんですから」

沢木さわき高文はそう主張した。自分でも変に理屈っぽい喋り方になっているとは思う。それでも言葉を発するのを止めることができなかった。

「少なくとも僕は納得できていません」

「高文くんって──」

と、牧先生は悠然と微笑んで、

「随分大人っぽくなったのね。自分の考えをしっかり人前で云えるようになって。高校生の頃はそうでもなかったでしょ、まあ、背が高いのは変わってないけど」

そう云われて、高文は大いに面映おもはゆい気分になった。確かに今年の一月、成人式には出た。とはいえ、大学二年生は大人なんだろうか、という疑問を感じないでもない。高文自身には、自分が大人であるという実感はあまりない。一浪しているし。いや、一浪はこの際関係ないか。

高文は牧先生と向かい合わせで座っている。西新宿の“牧京香ヨガスタジオ”。雑居ビルの四階のワンフロアを占める、広い板張りのレッスン場だ。その隅に、ささやかな応接セットが揃っている。

夕刻、レッスンの空き時間を狙って高文は訪ねて来た。牧京香先生は確かもう五十代のはずだったけれど、年齢をまったく感じさせない姿勢のよさで座っている。背筋に一本芯が通り、贅肉が削ぎ落とされた上半身はしゃんとしている。スマートな全身の印象は、バレエダンサーのようだ。ヨガで鍛え続けた賜物なのだろう。

志田しだ真帆子はここでインストラクターを務めていた。主に牧先生のアシスタントだが、近頃は週に数回、自分のレッスンの時間を持たせてもらえるようになっていた。女子大に在学中からここの生徒で、卒業と同時に就職した。おっとりした気質とヨガは相性がよかったのかもしれない。高文はその頃から荷物持ちやら力仕事の手伝いやらで、年上の従姉のお供としてここに出入りしている。それで牧先生とも顔馴染みなのだ。

「何の話だっけ。ああ、そうそう、あいちゃんと話したいんだっけね」

と、牧先生はスマートフォンを取り出す。少し操作してから小テーブルにそれを伏せて置くと、

「乳児のいるお宅に急に電話するのはマナー違反。ほら、授乳中だったり、赤ちゃんが寝ついたばかりのタイミングかもしれないでしょう。そこに電話のコール音は迷惑だから。手が空いたら電話くださいってメールかラインするのがルールなの」

牧先生の言葉に高文はなるほどとうなずく。大人の気遣いである。高文にはできない種類の心遣いだ。しかしこれではすぐに連絡が取れないのではないか、と少し心配になる。

幸い、待つこともなくテーブルの上のスマホから着信音が流れてきた。牧先生が素早く出る。

「ああ、忙しいところごめんね、え? うん、こっちは大丈夫、気にしないで。それより愛ちゃん、沢木高文くん、知ってるでしょ、真帆子ちゃんの従弟いとこの、そう、彼が話したいって、ええ、今来ていて、ええ、じゃ、代わるね」

差し出されたスマホを、高文は一礼して受け取る。

「もしもし、代わりました、沢木です」

『ああ、高文くんね、こんばんわ』

「あの、今、大丈夫ですか」

『うん、平気。三ヶ月ちゃんはたくさんおっぱい飲んで寝ちゃったところだから』

電話の向こうの古川ふるかわ愛の声は元気そうだった。真帆ねえの同僚、というか先輩インストラクターで、現在育児休暇中である。牧先生と同様、何度かここに出入りしているうちに顔見知りになった。

『私より、高文くん、大丈夫なの? 真帆ちゃんのこと。お葬式は?』

「昨日、済みました。警察がやっと戻してくれたので」

『あらやだ、私知らなくて、弔電も出してない、お香典も』

「気にしないでください、家族葬でひっそりとやったんです、親族だけで。伯父があまり大げさにしたくないと云って」

真帆姉の死から今日で五日。“事故”があったのが先週の水曜日、十月四日のことである。

「あの日、真帆姉は古川さんのお宅にお邪魔したんですよね」

『ええ、そう、その帰りにあんなことになって、私、少し責任感じちゃって』

「それは考えすぎです、古川さんのせいではないですよ。それより、その時の様子を伺いたいと思いまして」

それで今日は牧先生のスタジオを訪れたのだ。高文は古川愛の連絡先を知らない。先生に仲介してもらうためである。

『そう、あの日のことね』

「はい、ご迷惑でなければ」

『全然。迷惑なんかじゃないよ』

と、古川愛は語り始めた。

真帆姉は、古川愛の赤ちゃんの顔を見に行く約束をしていた。生後三ヶ月になり、ようやくほんの少し落ち着いたので、楽しみな約束を果たすことになった。それが先週の水曜のことである。お祝いのプレゼントを抱えて、真帆姉は古川さんの自宅マンションを訪問した。場所は足立区北千住。午後二時頃だったという。

『それで、プレゼントの紙おむつ山盛りセットやベビー服なんか開けて、うちの三ヶ月ちゃん抱っこしてくれたりして、いたのは三十分くらいかな、ほら、ぼんやりしているみたいで真帆ちゃんってそういうとこ気配りできる人でしょ。赤ちゃんのいる家に長居すると迷惑になるかもって、多分気を遣ってくれたのね、私は構わなかったんだけど、それじゃまたねって、真帆ちゃんすぐに帰って行って』

“事故”は二時半過ぎに起きている。古川さんの家を出た直後だと考えれば、時間はぴったり合う。

「判りました。ありがとうございます」

『こんなんでいいの?』

「充分です」

もう一度礼を云ってから、高文はスマホを牧先生に返す。先生は古川さんと二言、三言話してから、通話を切った。スマホを小テーブルに戻しながら牧先生は、

「聞きたいことは聞けた?」

「はい、お手数おかけしまして、ありがとうございました」

牧先生はくすりと笑って、

「本当に大人みたいな喋り方するのね」

そうだろうか。どちらかというと口下手だと云われる。今の古川さんとの会話でさえも、緊張して大汗をかいた。背中がびっしょり湿っているのを、高文は自覚していた。

その時、入り口のドアが開いて、ぞろぞろと人が入って来た。

「こんばんわー」

「失礼しまーす」

「今日もよろしくお願いしまーす」

賑やかなのは、先生と同年代の女性達だった。総勢十人ほど。体型は先生と随分違うけれど。

ご婦人方は、こちらを見てさんざめく。

「あら、先生、かわいい男の子なんて連れ込んじゃって」

「あらまあ、密会?」

「まあまあ、浮気ですか、先生、それ不倫ですよー」

「なかなかイケメンくんじゃないですか」

「いいなあ、先生、羨ましいー」

牧先生は立ち上がって、

「いいでしょう。私の若いツバメなの」

と、笑う。ご婦人方が一斉に「きゃあっ」と黄色い歓声をあげる。しばらくの間、きゃいきゃいと陽気にはしゃぐ。

先生は軽く手を叩いて、

「さあさあ、皆さん、くだらない冗談はそれくらいにして。着替えてらっしゃい。レッスンを始めますよ」

「はーい」

と、よいお返事でご婦人方はぞろぞろと、奥の部屋へと消えて行く。

牧先生はそれを見送ってから、

「そうそう、ちょっと待っててね、高文くん」

と、急ぎ足で、別の小部屋に入って行く。先生専用の事務室だと聞いたことがある。すぐにそこから出てくると牧先生は、

「これ、この前来た刑事さんの。真帆子ちゃんの人柄とか最近の様子とか色々聞いてきて、ああいうのを事情聴取っていうのね。何か思い出したらここへ連絡してくれって、置いていったの」

と、一枚の名刺を差し出してくる。高文はそれを受け取った。“鷲津剛志わしづつよし”という名前と電話番号が印刷されただけの、素っ気ない名刺だった。080から始まっているから携帯電話だろう。しかし、警察とも刑事とも書いていない。肩書きすらない。恐らく、悪用されないための用心なのだろう。と高文は見当をつけた。警察と明記してあると、悪意のある者が入手したらどんなふうに使われるか判らない。

その名刺をめつすがめつしながら、昨日の葬儀に顔を出した刑事と同一人物だろうか、と高文は考えていた。

「それ、持っていって。警察の情報を知りたかったら電話してみるのもいいかもね」

と、牧先生は云う。

「ありがとうございます」

先生のご厚意に感謝して、高文は頭を下げた。

レッスン着に着替えたご婦人方がわらわらと出てきた。それをきっかけに高文はスタジオを後にした。今日はスポーツの日で祝日である。ご婦人方にもたっぷりと汗を流してヨガを楽しんでもらいたい。

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