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「母をたずねて三千里」のマルコ少年は、イタリア男の元祖的アイコンか? #4 男子観察録

ハドリアヌス帝、空海から、スティーブ・ジョブス、チェ・ゲバラ、十八代目・中村勘三郎、山下達郎、はたまた「母をたずねて三千里」のマルコ少年や、ノッポさんまで……。大ベストセラー『テルマエ・ロマエ』で知られる漫画家、ヤマザキマリさんの『男子観察録』は、古今東西の男たちを観察し、分析し倒した「新・男性論」。ヤマザキさん独自の目線から浮き彫りになる、真の男らしさとは、男の魅力とは? 中身を少しだけご紹介します!

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独特の憂いがあるイタリア男

イタリア男のイメージというのは、世界の人種の中でも最も思い描きやすいものなのではないだろうか。

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©ヤマザキマリ/幻冬舎

日本人というものが、かつてチビの出っ歯で眼鏡にカメラといういくつかの記号で表されていたように、イタリア人と言えば恰幅が良くて、どこでもカンツォーネを歌い出すオヤジか、または昨今のメディア各方面で見られるような、体の毛穴中から色気が噴出した女ったらしの中年男性、というのが、多くの人の頭に浮かんでくるイタリア男の有り様だろう。

実際イタリアの男性達は、我々日本人が“チビ出っ歯眼鏡”で表された自分達のイメージを見ても、今更もう何も言う気がしなくなったように、海外用に流通しているイタリア男のアイコンにはもう何も口出しはしない。世界に名だたるラテンラバーという看板を引っさげて生きていくのも、まあ実際そんなに悪い気はしないのかもしれないが。

実際、日本のテレビでもたまにイタリア人の出演者を見かけるが、例えばかつてのサッカー日本代表の監督であったザッケローニなど、タレント業の人以外は別段女ったらしな雰囲気を醸し出しているわけでもなく、イタリアでもよく見かけるごく一般的なイタリア男達の印象だ。

ただ、やはりアングロサクソン系の男達と違うものがあるとすれば、それは彼らから放出されている何か独特な憂いと、甘えん坊感だろうか。

根拠はどこにあるのだろうと考えていると、ふと、とある日本人に大変馴染みの深い一人のイタリア男の事を思い出した。おそらく私達日本人はその一人のイタリア男の存在を知った事を皮切りに、独特の意識を彼らに対して持つようになったのかもしれない。

マルコ少年はイタリアの誇り

私達はかつてそのイタリア男(男と言っても9歳の少年だが)の健気な生き様を、お茶の間でだらだらしながらテレビ越しに見守っていた。

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19世紀のジェノバで、裕福ではないが知識階級の父親に育てられたその利発な少年は、家計を助けるために南米へ出稼ぎに行ったまま帰らぬ母を捜し求めて、一人で大西洋を渡って南米大陸へ赴く。

今なら児童虐待じゃないかとクレームが付きそうなくらい散々な目に遭いつつも、愛する母親に会いたいという意思に支えられながら、くじける事なく必死で彼女との距離を縮めていく……。

イタリア児童文学の傑作『クオーレ』の挿話、「母をたずねて三千里」の主人公マルコ少年は、私達にイタリア男の情熱やセンチメンタリズム、気弱さ、そしてマンマへの愛というものを知らしめた、イタリア男プレゼンテーターの第一人者かもしれない。

実際、イタリアという国はヨーロッパの中でも有数の移民流出国家だったので、家族との別れなど不条理な思いを強いられた子供達は沢山いたはずであり、たとえマルコがフィクションの中の登場人物であったとしても、彼がイタリア男の持つ美徳を全身全霊で表現していたのは間違いない。

日本の雑誌メディアで取り上げられるイケてるイタリア男は、皆、無精髭を生やし、首にスカーフを巻き、高級な腕時計を塡めたスタイリッシュオヤジ達だが、私はそんな年かさのいった脂っこい連中ばかりではなく、是非マルコ少年をイタリア男子の元祖的アイコンとして普及してもらいたいと思う。

なぜなら、スタイリッシュオヤジ達だって、皆学校で『クオーレ』は読まされてきたであろうし、そうでなくたって日本から輸入されたアニメを通じてマルコ少年の存在は知っている筈なのだ。

世界の果てであろうと何だろうと、野垂れ死にをしかけてもマンマに会いに行く、イタリア男としてその姿勢を全うしたマルコ少年はいつまでも彼らの誇りであり続ける事だろう。

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『男子観察録』ヤマザキマリ

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