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若き鉄道員、夏目壮太の日常…必ず涙する、感動の「鉄道員ミステリ」 #1 一番線に謎が到着します

郊外を走る蛍川鉄道の藤乃沢駅。若き鉄道員・夏目壮太の日常は、重大な忘れものや幽霊の噂などで目まぐるしい。半人前だが冷静沈着な壮太は、個性的な同僚たちと次々にトラブルを解決する。そんなある日、大雪で車両が孤立。老人や病人も乗せた車内は冷蔵庫のように冷えていく。駅員たちは、雪の中に飛び出すが……。

「駅の名探偵」が活躍する、二宮敦人さんの『一番線に謎が到着します』。鉄道好きもミステリ好きも、涙なしでは読めない本書から、一部を抜粋してお届けします。

*  *  *

プロローグ 俊平の憂鬱 その一


明日鉄道が止まれば。

藤田俊平は目の前を通過していく特急列車を見て思った。

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ちょうど帰宅時、緑の帯が引かれた鋼鉄の車体には、人間がぎゅう詰めにされている。囚人のように吊革に引かれ、戦傷兵のように銀色のポールに寄り掛かって。みな一様に誰とも目を合わせず、手元の携帯電話か瞼の裏の闇だけを見つめて、ただ目的地までの時間をやり過ごす。

男も女も老人も若者も無作為に、電車は運んでいく。どんな人間であっても、この鉄の檻を使った往復移動からは逃れられない。そんな気がした。会社に入れば、あれがずっと続くのだ。明日も明後日も、来年も再来年も……そして自分も父親のように老い、祖父のように死んでいく。

嫌だ。いくらでも替えの利く、社会の歯車は嫌だ。父親のようには、祖父のようにはなりたくない。

もっと華々しい仕事がしたい。もっとカッコよく働きたい。

情熱と誇りを持てる仕事をしたい。そんな自分に合った仕事があるはずで、そんな自分に合った会社があるはずなのだ。

だが、今のところ俊平を雇おうという会社は見つからない。

俊平はネクタイの結び目に指を入れ、少しゆるめた。祖母に買ってもらったブルーのそれは、一月とはいえオフィス街を歩き続けて塩を吹いていた。携帯電話を開くと転送メールが一件。今後の就職活動の成功を祈る、との文面で企業から。また落ちた。

社会の歯車になるのは嫌だ。しかしその歯車にすらなれない自分がいる。春には大学を卒業する。それからどうすればいいのか。焦りばかりがつのる。

俊平はため息をついた。

赤いテールランプで闇に線を引き、特急列車は通り過ぎた。藤乃沢駅のホームには次第に人が並び始める。みな、社会人だ。

居心地が悪い。自分が社会に不要な存在に思えた。特急列車のように、世界が自分を置き去りにしてどんどん遠くに過ぎ去っていくような気がする。俊平が就職先一つ見つけられずにいる間にも、鉄道は動き続けているというのに。毎日、毎日。

駅舎は威圧的で、ホームは冷たい石の塊。家庭の温かさは社会にはない。こっちが世の中の現実なのだ。

明日鉄道が止まれば。

もう、面接になんか行かなくてすむのに。

俊平は洟をすすり、深く息を吐いた。

一章  亜矢子の忘れ物


藤乃沢駅はお昼時だった。

どこからかいい匂いがする。それは一・二番線のホームにゆっくりと溢れ出ている。電車の到着を待つサラリーマンたちが、おやと首を傾げた。香ばしく焼ける鶏の香り。一緒に流れてくる優しい風味は中華風スープだろう。後から追ってくるのは焦がし醬油だ。これはたまらない、日本人ならいてもたってもいられなくなる。並んでいる乗客は、みな一様にそわそわしていた。

ホームに飲食店があるわけでもないのに、食欲をそそる香りに鼻をくすぐられたことはないだろうか。近くの家でカレーライスでも食べているのかな、と思ったことはないだろうか。そんな時はたいてい、同じホームの上で料理が作られている。エプロンを腰に巻いて、鍋とまな板を前に腕を振るっているのは、駅員さんだ。

うん、ちょうどいい。

夏目壮太は味見小皿を口から離し、おたまで大鍋をかきまぜる。トマトが、玉ねぎが、レタスが、たっぷりの鶏の出汁の中でふわふわと泳いだ。冷蔵庫を開け、卵を片手に二つずつ、計四つ取る。軽くシンクのふちに当ててひびを入れ、茶碗に割って菜箸で溶き、鍋の中に注ぎ込む。とろりとした半透明の中身は、さっと黄色の線に変わる。流れるような動作で殻をゴミ袋に放り込む。炊飯器がリンリンと嬉しそうに鳴った。

ご飯も完成。よし、今日も上手にできたぞ。

「一番線、電車がまいります。黄色い線の内側に下がってお待ちください」

アナウンスが流れ、やがて電車がホームに滑り込んでくる。レールとブレーキが押しつけ合う音がした後にドアが開く。壮太はそれを聞きながら丼を用意する。

「急行にお乗換えのお客様は、降りたホーム二番線でお待ちください……」

たくさんの足音。話し声。壁一つ向こう側では、お客さんが行き交っている。

「まもなく電車が発車いたします。駆け込み乗車は大変危険ですので、次の電車をお待ちください」

炊飯器の蓋を開けると、湯気が壮太の顔を包んだ。思わず笑顔になる。温かいご飯には、人を幸せにする力がある。粒の立った米を丼にたっぷり盛りつけ、上にぱりぱりの刻み海苔を散らす。フライパンの中央では、鶏もも肉がじゅうじゅうと照り焼きになっている。脂と醬油が泡立ち、脇の葱も一緒に揺れていた。

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発車ベル。

壮太はちらりと時計を見た。十二時四分、竹ヶ塚行き。今日も定刻運転だ。

菜箸で鶏をつまむと、焦げ目のついた皮がぱりっと割れた。肉がふっくらとしなる。肉汁をこぼさないように丼に載せ、炒めた葱と人参を横に並べる。ほんの少し刻みニンニクを利かせた焦がし醬油のタレを、フライパンの上のアツアツの脂と一緒にしてかける。

特製鶏丼の完成だ。

「お腹へったぁー! 壮太ちゃん、今日のメニュー何?」

扉が開くと同時にそう言って入ってきたのは、中井佐保だ。小さな体とくりくりした目、そして赤くなった頬は小動物を思わせる。

「佐保さん、時間ぴったりですね。ちゃんと用意できてますよ」

「鉄道員なら時間は守る! って、あ、キャー! 鶏丼だあ! 大好物! 嬉しいー!」

佐保は両手を合わせて飛び跳ね、ひとしきり喜びを表現すると壮太から鶏丼を奪い取った。箸を口にくわえ、空いた右手で鍋の蓋を開ける。

「おお、スープも! いやあ、うまそう! 素晴らしい!」

「ほうれん草とジャコのおひたしもありますよ」

「ほんとー! ああ……毎日壮太ちゃんが食事当番だったらいいのになあ」

「いやあ、さすがにそれは勘弁してください」

「っていうか、毎日私にご飯作ってほしい。壮太ちゃんが彼氏だったらいいのに。もしくは専属執事か、親か、おばあちゃんだったらいいのに」

「どこまで僕に求める気ですか」

「へっへー、冗談だよー」

佐保は踊るような足取りでテーブルに皿を並べていく。

「おい佐保、扉はちゃんと閉めろよ。お客さんに声が聞こえちゃうぞ」

次にやってきたのは楠翔だ。翔は部屋に入ってすぐ、ぴしりと音を立てて背後の扉を閉めた。外のざわつきがすっと遠のく。

「見られたら、駅員がサボッてるって思われるだろ」

涼しげな目元、知的な瞳。通った鼻筋に、色っぽい唇。すらりと伸びた長身に、どこか高貴なたたずまい……学生時代はソシアルダンスに明け暮れ、ミスター東大にも選ばれたという翔は、誰が見ても美男の部類である。

「私たち、ちゃんと仕事してるんですけどねえ」

佐保はもう大きな鶏の塊をほおばっている。

「そうだけどさ。お客さんは、こんなところで飯食ってるなんて想像もしてないんだからな」

翔は制帽を取って髪をかきあげた。さらさらの黒髪、額に光る汗。何をしても絵になる男だ。自分もあんなふうに端整な顔に生まれていたらなあ、と壮太は翔を見る。

「あ」

ぼちゃん。翔の手から制帽が落ち、スープの鍋に落ちた。

「しまった!」

水たまりに落ちた紙切れのように制帽は軽く一回転すると、ゆっくり、ずぶずぶと中華スープの海に沈みかけた。翔は慌てて制帽を摑み、引っ張り出したが、卵とレタスの破片がついていた。

「せ、セーフ!」

「アウトだと思いますよ」

壮太が言い、佐保が呆れた目で翔を見る。何を思ったか翔はそのまま制帽を勢いよくかぶった。

「あっついわ!」

美しい顔を爽やかに歪め、翔は飛び上がった。今度は制帽は床に落ちた。

「そりゃ熱いですよ」

「うむ。言われてみればもっともだな……」

翔は拾った制帽を見つめ、頷いている。翔は外見も学歴も家柄も、いわゆる王子様と表現して遜色ない。ただ一つ、内面にやや問題がある。藤乃沢駅の駅員の誰よりも天然ボケなのだ。

「翔ちゃんは動かなければイケメンなのにな。動くと残念になっちゃう」

「俺に彫刻にでもなれと言うのか」

「そうしたら改札前に飾るよ。とりあえず、先にスープ取っておいて良かったあ」

佐保がけらけら笑った。

翔は今度は慎重に制帽を拭き、熱くないことを確認してかぶり直した。そしてきりっとした目で壮太を見る。

「……まあいい。見ているのが佐保と壮太だけで良かった。いいか、このことは誰にも言うなよ。他の奴らには黙ってスープを食わせるのだ。万が一、七曲主任や及川助役に知られたら……」

「……あ。翔さん後ろ」

「え?」

翔はゆっくりと振り返る。誰もいない。視点を下げていく。翔よりもだいぶ低い目線に、彼はいた。背後で微動だにせず、鋭い目でぎろりと翔をねめつけている。翔は悲鳴を上げた。

「え……駅長! いつ、いらっしゃったんですか?」

「翔ちゃんと一緒に入ってきてたよ」

佐保が言う。

「ちょっと、忍者みたいな真似やめてくださいよ! どうして駅長はいつも気配を消して僕らの後ろにいるんですか!」

震えて本気で怖がっている翔に、藤乃沢駅長は答えない。不機嫌そうな表情のまま、スープの入った大鍋に視線をやる。そして威厳のある口元の髭をぴくりと動かした。

「す、すいません! 僕はその、悪気があってではなく、その!」

頭を下げる翔。壮太は脇から別の丼とお椀を取り出して示す。

「まあまあ、幸い駅長の分は別に取り置いてますから。駅長、玉ねぎが嫌いですからね」

「よくやった壮太! ナイス気遣いだぞ」

駅長はもう一度翔を睨んだ。それから、まあよかろう、とばかりに目を伏せて一つ頷くと、押し黙ったまま、壮太が置いた食器の方に歩いていく。翔は飛びのいて、駅長に道を譲った。小柄な割に恰幅の良い駅長の腹が、たぷんと揺れた。

「……はあ。びっくらこいた」

翔が胸をなでおろす。佐保がくすくす笑っている。壮太はふう、と一つ息をついて大鍋をかき混ぜた。これから来る人たちには翔の制帽が中に入ったことなど、わかりはしないだろう。ちょっとだけ塩分が増したかもしれないが。

◇  ◇  ◇

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一番線に謎が到着します 若き鉄道員・夏目壮太の日常

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