聴力を失った苦悩のピアニストが、どん底のときに学んだこと #2 たどりつく力
貧しさ、いじめ、そして聴力の喪失……。でも、運命の扉は重いほど中が明るい! 数々の苦難と絶望を乗り越え、世界的ピアニストに登りつめたフジコ・ヘミングさん。著書『たどりつく力』は、その激動の半生をみずからつづった自叙伝エッセイ。心が折れそうなとき、逆風に負けそうなとき、読めばきっと勇気がわいてくる。そんな本書の中身を少しだけご紹介します。
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人は一瞬でどん底に突き落とされる
ウィーンでのコンサートを一週間後に控えたある底冷えのする日、運命はまたもや私に過酷な試練を与えました。
古いアパートを借りていた私はひどい風邪をひいてしまい、服用した風邪薬が合わず、聴覚を失ってしまったのです。
初めは熱のせいかと思いました。からだが妙にむくんでいることに気づいたのです。
起き上がると、いつも枕元に置いてある銀の鈴が床に落ちた。でも、何も聴こえない。
壊れたのかと思って鳴らしてみたのですが、音がまったく聴こえないのです。
あわてて近くにあったメトロノームを動かしてみましたが、これも聴こえない。ただ針が動いているのが見えるだけ。
ようやく私は自分の耳の異常に気がついたのです。からだが凍るような思いにとらわれました。完全に聴覚を失ったわけですから。
その冬はあまりにも寒く、食べ物にも事欠いていた私は市販の風邪薬を飲んだのですが、体質に合わなかったことが原因でした。
右耳は十六歳の時に中耳炎をこじらせて、すでに聴こえなくなっていました。そして薬を飲んだ途端、左耳もまったく聴こえなくなってしまったのです。
あまりに悲しくて、どん底に突き落とされた感じがし、もう涙も出ませんでした。すぐにピアノに駆け寄って鍵盤をたたいてみましたが、当然のことながら指でたたく音も楽器の音もまるで聴こえないのです。
長年かかってせっかく得たチャンスが、私の手からスルリと落ちていってしまいました。
何時間もひたすら神さまに祈りましたが、聴力は戻りませんでした。
何も聴こえない音のない世界で、「音を失った音楽家」としてどうやって生きていったらいいのか。
ピアノの音も聴こえない無音のなかで、私は茫然自失となってうずくまっていました。
手を差し伸べてくれた隣人カップル
コンサートは、大変悲惨な結果に終わりました。
私はまったく聴こえない状態でピアノを弾き、精神的にもボロボロで、どんなふうに弾いたかも思い出せないほどです。
ただひたすら、バーンスタインに申し訳なく思っていました。
この時点で、ピアニストとして世に出るチャンスは失われてしまいました。目の前で扉が音をたてて閉じてしまったわけです。
ウィーンでリサイタル・デビューを果たし、みんなに演奏を聴いてもらえる。一流のピアニストにしか与えられないウィーン・デビューという輝かしいチャンスは、私にはまったく縁のないものとなりました。
もうウィーンにはいられない、そう考えて逃げるようにスウェーデンの首都、ストックホルムに移住しました。
この地で国籍を回復し、耳の治療に専念しながら音楽学校の教師の資格を得、以後三十数年間というものさまざまな土地に移りながらピアノを教え、孤独な日々を送るようになります。
まったく音の聴こえない生活は、約二年間続きました。
いつもピアノを聴いてくれるのは、拾ってきた数匹の猫たち。
当時はお金がありませんから、その日の食べ物と猫のえさの心配ばかりしていました。
友だちにお金を借りるのも恥ずかしいし、途方に暮れる毎日です。
ある時、アパートの隣の部屋に住んでいたカップルが、「パスタがあるから食べにこないか」と誘ってくれました。
私は空腹で死にそうだったため、喜んで飛んでいきました。すると、テーブルにはゆでたパスタだけ。
ソースも野菜もお肉も何もなく、パスタだけがお皿にのっていました。
彼らもお金がないため、他の物は買えなかったのです。それなのに、私の窮状を見かねて呼んでくれた。
どんなに困難な時でも、自分よりもっと大変な人がいる。その人に手を差し伸べるという精神を、この時に学んだのです。
いまでも私はその精神を大切にし、恵まれない人や捨てられた動物たちに援助の手を差し伸べるようにしています。
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