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公安部のデータに記録のない男は誰? 超監視社会の闇を描いた警察ミステリー #5 キッド

上海の商社マン・王作民と、福岡空港に降り立った城戸護。かつて陸上自衛隊でレンジャーの称号を得た城戸は、王を監視する刑事の存在を察知。不審に思いながら護衛を続けるも、秘書が王を射殺し、自死してしまう……。数々の話題作で知られる相場英雄さんの近作『キッド』は、超監視社会の闇を描き切った警察ミステリーの金字塔。今回は『血の雫』の文庫化を記念し、その冒頭を特別にご紹介します。

*  *  *

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国際線ターミナルの出口付近で、城戸と王は大型のキャリーバッグ二つを運ぶ若い男性秘書の陳耀邦に目をやった。

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「仕事の性質上、彼を手伝うことはできません」

小柄な陳は、ジュラルミン製の大型キャリーバッグの扱いに四苦八苦している。

「構いませんよ。城戸さんは仕事に専念してください」

城戸は厚手のジャケットのポケットからレイバンのサングラスを取り出した。

「ガードはどこを見ているのか視線を読まれてはいけない、たしかそんな理由でしたな」

その通りです、と王に答え、城戸は大型リュックを背負い直して周囲を見回した。

香港から福岡までキャセイパシフィック航空で三時間半、快適なフライトだった。香港の空港ターミナルでは、王を監視するような視線は一つもなかった。ファーストクラスの座席にいたのは、ビジネスマンや裕福そうな家族連れだった。機内でも異変はなかった。本土の黒社会を感じさせるような気配はない。

「専務、車が来ています」

キャリーバッグを引きながら、陳が言った。到着ゲートの分厚い扉の向こう側に〈Mr. Wang〉の札を掲げた背広姿の男が見える。

陳は福岡のタクシー会社にメルセデス・ベンツのSクラス、リムジン仕様のハイヤーを頼んだと言っていた。

「陳、もう少し速く歩けないのか?」

苦笑いしながら、王が振り返った。

「申し訳ありません。すぐ追いつきます」

城戸は歩みを速めた。到着ゲートの外は一般の客が誰でも出入りできるエリアだ。ハイヤーの運転手のように、到着客を待つ業者が複数待機している。友人や知り合いを迎えに来ているらしい人も二〇人程度確認できた。一瞥する限り、黒社会めいた雰囲気の持ち主はいない。

「あの方のようですね」

背広姿のショーファーを認めたらしく、王が言った。

城戸は注意深く周囲を見回した。国際線ターミナルの出口近く、タクシー乗り場に近い地点に異変を察知する。城戸は足を緩めた。王がすかさず反応する。

「なにか?」

「ゆっくり歩いてください。危険人物ではないと思いますが、念のため」

城戸の変化を王は敏感に察知した。香港島の酒家で王が打ち明けた懸念は、本当なのだろう。上司の緊張が陳にも伝わったのか、キャリーバッグのローラーの音が不自然になる。

城戸は王の札を掲げたショーファーに声をかけた。弾かれたように運転手が王に近づき、たどたどしい中国語で歓迎の挨拶をして、陳のキャリーバッグを受け取った。

城戸は目を凝らした。タクシー乗り場近くに、作業ジャンパーを着た男が二人いる。一人の手元には夕刊紙がある。東名阪では名の知れた媒体だが、福岡では売っていない新聞だ。二人の耳には透明なイヤホンが挿さっている。ともに目つきは鋭かった。それも醒めた目線だ。人を注意深く観察し、疑ってかかっている。

「おそらく東京から来た刑事ですね」

城戸が広東語で告げた。王が動揺する。

「東京? 刑事?」

「心当たりはありませんか?」

「全くありません」

王が不安げな表情を見せた。城戸は唐突に歩みを止め、背後を振り返る。到着ロビーの前でこちらを見ていた男と目線が交錯した気がする。すぐに男は到着ゲートの内側に目を向けたが、動作は不自然だ。手元には小型のデジカメがある。普通のサラリーマン風だが、監視者だろう。刑事が二人、そして諜報員風の男。差し迫った危機ではなさそうだが、見張られているのは確かだ。視認できたのは三人。ほかにもどこからか自分を見ている人間がいる気がする。城戸はもう一度、周囲に目を向けた。

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「王の近くにいるサングラスは誰だ?」

東京・若松町にある公安総務課の特別オペレーションルームで、監視用の映像を見始めたときから、志水が気になっていた男だ。外事二課はきちんと押さえているのか。樽見が首を振る。

「わかりません。情報になかった人物です」

王の先を歩く男は歩みを速めたり、歩幅を小さくしたりして周囲を警戒している。身のこなしで身体能力が高そうなこともわかる。中国人民解放軍の出身者が民間警備会社などに雇われたのかもしれない。壁一面を埋めつくす数々のモニターが、福岡空港の様子を映し出している。

「こちら三番、対象が点検を始めました」

スピーカーから現地捜査員の声が響いた。最も大きなモニター画面がライブ映像に切り替えられ、王一行の三人の背中を映し出す。王が前方の何かを気にする動きを見せた直後、サングラスの男が素早く振り向いた。

「一瞬ですが対象と目が合ってしまったようです。脱尾します」

三番の捜査員がそう告げると、ライブ映像が途絶えた。少し離れた場所からの映像に切り替わる。

「あのサングラスの男を割れ」

「検索をかけます」

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樽見が手元のキーボードを何度か叩いた。大画面横の二〇インチのモニターに、中国軍や諜報関係者の顔写真が表示された。画面が二つに分割され、右側に振り返った男の静止画が出る。樽見がもう一度キーボードを操作する。男の顔、輪郭に合わせるように薄緑の枠がかかり、スキャニングが始まった。左の画面上では猛烈な速度で顔写真が切り替わった。公安部が保有するデータとサングラスの男の顔認証が始まったのだ。半年前にシステムを更新し、照会のスピードは一〇倍に上がっていた。

〈一致データなし〉

スキャン結果を記す文字が表示された。

「韓国やアメリカ、民間警備会社のデータベースも当たれ」

志水の指示に、樽見が頷いた。

「手の空いた者はキャセイパシフィック到着便の乗客名簿をすぐに調べろ」

志水の声に二、三人の若手が反応し、オペレーションルームにキーボードを叩くけたたましい音が響き始めた。

志水は頭の中にあるアルバムを猛烈なピッチで繰り始めた。公安部が総力をあげて構築したデータベースには一致する顔がなかった。中国人でなければ、王が秘かに取引している北朝鮮の諜報員か。日系や中国系の米国人かもしれない。

志水は一度会った人物、あるいはリストの中の顔写真を見れば、顔つきや骨格を完全に覚える能力を持つ。一〇年ほど前、刑事部から公安部に引き抜かれたときに特別な訓練を施され、記憶したら忘れない体質に変えられてしまった。

何百人分もの顔写真の束を数秒ずつのピッチでめくり、一時間後に神経衰弱のように名前とマッチングさせる。渋谷駅前のスクランブル交差点で、事前に顔写真を与えられた一〇人を通行人から見つけ出すなど、訓練は過酷を極めた。おかげで常人よりも瞬きする回数が極端に減った。現場捜査員を束ねる立場になっても、技術は一切曇っていない。

「乗客名簿はまだか」

記憶のメモリーをフル稼働させながら、志水は低い声で訊いた。

「あと一分程度かかります」

警視庁公安部は、中央官庁のホストコンピューターにアクセスできる権限を秘密裏に付与されている。テロ対策強化の一環として、全国の主要空港のホストシステム、ターミナルにある航空会社の内部にも到達できるように整備したのは、こういうときのためだ。さっさと検索を済ませねば、国を護ることなどできない。

「ありました。王作民、陳耀邦……」

「陳というのが先ほどのサングラスか?」

「いえ、違いました。若い男の方です」

細面で伏し目がちな男の写真が表示され、志水は舌打ちした。

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「本当に来るんだろうな?」

「大丈夫です。信用してくださいよ」

「おまえはまだまだひよっこだ。調子に乗るな」

左肩に白い鏡筒の望遠レンズを付けたミラーレス一眼、右肩に標準ズームの一眼レフ――合計四キロ前後になる機材を軽々と抱えたカメラマンの清家が言った。

昨日と同じように、大畑は福岡空港の国際線ターミナルの駐車場にレンタカーを停めたあと、清家と連れ立って到着ロビーに来た。

「最近の偉いさんは口を開けば経費節減ばかりだ。手ぶらで東京に帰るわけにはいかんぞ」

「だから来ますってば」

清家は芸能人や政治家の密会現場を何十回となく撮影している。地震や雪崩など災害現場へも絶えず出動、果ては戦場取材にも行った経験を持つ。

「こいつが国連決議をかいくぐるキーマンってわけか」

大畑が商社マンの栗澤から入手した王作民の顔写真が、清家のスマホの画面にある。

「ドラマや映画みたいに、さも悪者でございって面相の奴はあまりいないがな」

スマホをダウンジャケットのポケットにしまい、清家が言った。到着ロビーの分厚い扉が開き、大声で話す団体客が現れた。

「王ってのは金持ちなんだろ? 特別扱いされて別の出口ってことはないのか」

何度も現場待機を繰り返してきたベテランは、注意深く周囲を見回した。

「出てくるタイミングは違うかもしれませんが、出口はここだけです。それにほら、今日はアレも待機しています」

大畑はタクシー乗り場近くに停車しているメルセデスのグレーのリムジンを指した。

「わかったよ」

たすき掛けにしていたカメラバッグから二台のストロボを取り出して、清家はセッティングした。太った中年男だが、機材を準備するさまは、鹿や鴨を撃つハンターのような佇まいがある。

週刊誌記者の仕事は、役所や警察の記者クラブに在籍し、プレスリリースが降ってくるのをじっと待つような悠長なものではない。自分の足を使ってネタを掘り起こすしかないのだ。週刊新時代は業界最大手であり、世間を驚かすスクープ誌として名を馳せてきた。総勢六〇人の編集部員のうち、特ダネを追う特集班のメンバーは約二五人。このうち一八人がフリーの取材記者で、実績が芳しくなければ一年で首を切られてしまう。

大畑は三年前に発行元の言論構想社の総合月刊誌から新時代編集部に異動した。小説家の担当やグルメ、カルチャー、旅行などを取材する文化企画班への希望を出していたが、放り込まれたのは生き馬の目を抜く特集班だった。

新聞出身のベテラン先輩記者に鍛えられ、一年半ほど前から独自ネタをようやくつかめるようになった。ひよっこという清家の軽口は、わずかな期間だけで記者ヅラするなという戒めであり、励ましでもある。

師走も押し迫った福岡は存外に寒い。かじかむ両手に息を吹きかけたあと、大畑はスマホに目をやった。栗澤から入手した国連決議違反の共謀者、中国人の王の顔を睨む。切れ上がった目とシャープな輪郭。一目で聡明さがわかる顔立ちだ。

栗澤から情報を得て、大畑は見本市の前日に福岡に入った。香港、上海からの便をひたすら待ち続けている。

「あれだ」

清家が望遠レンズ付きミラーレス一眼を構えた。白いレンズの先に、肩幅の広いサングラスの男が見えた。背後に仕立ての良さそうなベージュのチェスターコートを着た男がいる。王だ。望遠レンズの焦点距離を頻繁に変えながら清家がシャッターを切り続ける中、大畑は王に向けて駆け出した。

「Excuse me, Mr.Wang! I'm Japanese reporter」

呼び掛けながら、大畑は近づいた。サングラスの男が素早く進み出て、大畑と王の間に入る。押しのけようとしたが、気づいたときには、大畑は尻餅をついていた。

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キッド 相場英雄

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