主人のがんは治りますか…生と死の現場をリアルに描いた人気シリーズ第2弾! #3 逃げるな新人外科医
雨野隆治は27歳、研修医生活を終えたばかりの新人外科医。2人のがん患者の主治医となり、後輩に振り回され、食事をする間もない。責任ある仕事を任されるようになったぶんだけ、自分の「できなさ」も身にしみる。そんなある日、鹿児島の実家から父が緊急入院したという電話が……。
『泣くな研修医』に続く中山祐次郎さんの人気シリーズ第2弾、『逃げるな新人外科医 泣くな研修医2』。現役外科医でもある著者が、生と死の現場をリアルに描いた本作から、冒頭部分をご紹介します。
* * *
カルテをもう一度見直す。すでに佐藤がサマリーをまとめてくれていた。
――同じ日に、同じところのがんの患者さんが入ってくるなんて……間違えないよう気をつけねば……。
隆治は、時間を空けて再び紫藤のベッドに行ってみた。妻と娘も戻ってきていた。三人の顔を見て、隆治はびっくりした。
――奥さんと紫藤さん、顔がそっくりじゃないか……娘さんもほぼ完璧に紫藤さんの顔だ……。
長年連れ添った夫婦で顔が似てくる、とはどこかで聞いたことがある。が、ここまでそっくりな夫婦は見たことがない。三人とも丸顔で張りのある肌をしていて、みな同様にニコニコしていた。
「あ、先生、妻と娘です」
紫藤が言うと、
「よろしくお願いいたします」
と、ベッドサイドの椅子に座っていた奥さんが立ち上がって丁寧にお辞儀をし、
「よろしくお願いします」
と、隣に座っていた娘さんも立ち上がり、さらににっこり笑って言った。年齢はわからないが、紫藤は六六歳だったのでおそらく三〇歳前後だろう。隆治と同じくらいかもしれなかった。
「主治医の雨野と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
つい笑顔になってしまう。
「ちょっとご病気について、お話を伺ってもよろしいですか?」
紫藤の詳細な病歴はカルテになかったため、隆治は話を聞き始めた。
「ええ、もちろんです」
と紫藤が言った。
「あ、ご家族はおかけになっていてくださいね」
隆治はそう声をかけたが、妻と娘はニコニコしたまま立っている。どうにもやりづらいが、そのまま話を聞いた。
「ええと、はじめはどんな感じだったのですか?」
「はい、実はどこも悪くなかったのですが、家内が」
そう言うと紫藤は妻を見て、
「あなたもいい歳だから、そろそろ検診とかちゃんと受けてください、と」
「なるほど」
「私はサラリーマンで忙しかったので、定年退職までは検診なんてまったく受けていなかったんです」
「それで、まあ仕事もなくなったし検診受けてみるか、と受けてみたら、ひっかかりまして。なんだっけ? 便がどうとか」
「あなた、血が混じっていたんでしょう」
妻が追加する。
「そうそう、便に血が混じってるとかで、カメラをやったんです」
――便潜血が陽性だったということか。
「そうしたら」
急に娘が口を開いた。
「大腸がんがあったんです! 私、本当にびっくりしちゃって」
もう本当に困った、という顔をしつつニコニコしている。
「そう、それで、心臓のほうで親が昔からかかっている牛之町病院にお世話になったんです」
「なるほど、そうだったんですね。で、佐藤先生の外来で」
「ええ、な?」
紫藤は二人に同意を求めた。
「はい、あのとても素敵な先生で」
妻が嬉しそうに言う。
「ホント美人だから、父がデレデレしちゃって」
娘が付け加える。
「ありがとうございます。よくわかりました」
「この度は、父がご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
娘さんが深くお辞儀をしたので、隆治は恐縮して頭を下げた。
「あ、こちらこそよろしくお願いします。さっそくですが……」
隆治は手術があさってであること、そして手術の概要を話した。最後に、
「質問はありますか?」
と尋ねると、妻が、
「あの、大変失礼を申しますが……」
と言って、娘と顔を見合わせている。あらかじめ聞く質問があったのだろうか。聞きづらそうに、妻が続けた。
「主人は、主人のがんは、治るのでしょうか」
――来た……。
隆治は戸惑った。四人部屋で、中には治る見込みがない患者もいる。隣にいる水辺もその一人であり、外来でそれは言われているだろう。そういう他の患者に聞こえるところで返答するのは難しかった。かといって、はぐらかすと変に心配をかける。小声で言ったところで、不安を募らせるだけだ。
「ええと、詳細は別の部屋でお話ししましょうか」
「いえ先生、ここで大丈夫です」
今度は紫藤が真面目な顔をして言った。
――いやそれはこっちの都合なんだけどな……。
そう思ったが、小声ならまあ大丈夫かと思い、
「紫藤さんのステージなら、手術すれば治る可能性が高いと思いますよ」
「ホントですか! 良かった!」
娘さんが大きな声を出した。紫藤が「声が大きいよ」と言ったが、しかし嬉しそうだった。
「大丈夫なんですね!」隆治の目をじっと見て、妻が念を押した。
「ええ、まあ大丈夫でしょう……と思います」
隆治は小声で言った。
それでは、と言って隆治は病室をあとにした。
――なかなかパワフルな奥さんと娘さんだな。紫藤さんよりずっと喋ってたような……。
隆治は、自分で「大丈夫」と言ってしまったことがひっかかっていた。ステージが早期であるとはいえ、病気はがんだ。再発する人はいるし、その前に手術がすんなりいかないことだってある。軽率な発言をしてしまった、と隆治は思っていた。
その日の夜、隆治は牛之町病院の医師歓迎会に参加していた。隆治が勤める牛之町病院は東京の下町にある、大病院というほどではない大きさの病院だ。それでも、毎年四月になると数人の研修医が新しく入ってくる。隆治も二年前にはこの歓迎会にスーツを着て参加したのだ。
病院近くの居酒屋で、歓迎会は始まった。隆治が少し遅れて参加すると、すでに会は大騒ぎになっていた。所属する外科の上司たちや、何人かの他の科の医師に乾杯をして回る。その中に、研修医時代から同期の川村の姿もあった。
「アメちゃん、久しぶり! ヒパヒパ!」
「おお、川村久しぶり! ヒパヒパって懐かしいな!」
ヒパヒパはハワイ語で乾杯の意味だということを、隆治は以前、川村に誘われて行った合コンで初めて知った。
研修医時代からずっと親しかった川村だが、半年ほど別の病院で研修をしていて、この四月に牛之町病院へ耳鼻科医として戻ってきたのだった。以前に輪をかけて都会的な洗練された雰囲気を醸していた。
「ねー、あのときのCAとの合コン覚えてる? あの時、たしかアメちゃんはおとなしそうな子と一緒に帰ったんだっけ?」
「違う違う! あのあと病院に呼ばれて大変だったんだから。あれで、しばらくまた病院から出られなかったよ、トラウマになって」
「マジか! 知らなかったよーごめんねー。でもまた行こうぜ」
「う、うんそうだね」
「あれっもしかして彼女できちゃった? アメかの?」
相変わらず川村は、さらっと本質的なことを聞いてくる。これが都会育ちってことなんだろうか。
「いや、できてないけど……」
「じゃあいいじゃん! アメちゃんずっと仕事忙しいの? まあ外科は大変かー」
「そうだねえ。ま、耳鼻科も変わらないだろ? オペもたくさんあるみたいだし」
川村は牛之町病院の耳鼻科に正規のスタッフとして雇われていた。ふつう、研修医からすぐスタッフになることはないのだが、川村は特例だった。研修医時代の有能さを買われたのだ。
「まあねえ。うちは耳鼻科っていっても頭頸部外科だから、超長いオペが毎週あるぜ。一〇時間とか」
「すごいな。川村そういうの、ダメじゃなかったっけ?」
「え? 長時間労働? いや全然。だってめちゃくちゃ面白いもん、耳鼻科。耳も鼻も喉もあるんだぜ、飽きないよ。面白けりゃ苦じゃないんだよね、俺」
「そうなんだ? そういうの嫌いかと思ってたよ」
「それよりアメちゃんもあのきれいな先生と働いてるんだろ? いいよな」
「あ、佐藤先生? そうだねえ。ま、時々怖いけど」
「そうそう、私に近づくと怪我するよ、って感じの顔してるもんね。ツンとして。玲先生って言ったっけ。ま、冗談じゃなくホントに今度飲み行こうぜ。また誘うから!」
わかったまた今度ね、と言って隆治は外科医が多く座っているテーブルに向かった。
*
「それでは、今年新しくいらした先生方をご紹介します」
飲み会が始まってしばらくしてから、司会である内科部長がマイクでアナウンスした。
これは牛之町病院に続く伝統の恒例行事、新任医師の挨拶だ。研修医も、そうでない新任の医師も、ここでは面白い喋りが求められる。
「まずは研修医の先生方から。今年医学部を卒業され、医師国家試験に合格したての先生方です!」
割れんばかりの拍手が居酒屋内を占拠した。
「よっ!」
「いいぞー!」
合いの手を入れる医師は、すでにもう酔っ払っているのだろう。急ごしらえの舞台のようなところには、スーツ姿の男女六人が立っていた。
「それでは、お一人目!」
一人目の研修医が挨拶をする。
「みなさま、こんばんは! 私はこの四月から研修医としてやってまいりました、古賀正一と申します!」
マイクがあるのに、あえて使わずに大声で話している。そういうパフォーマンスのようだ。
「大学は明新医科大学で、出身は埼玉です! 部活はラグビーをやっておりました! 志望する科はすべての科です! どうぞよろしくお願い申し上げます!」
そう言うと、持っていたビール瓶を口につけて一気飲みした。医師たちはみな手を叩いて大騒ぎしている。
「すごい人入ってきましたねぇ」
いつの間にか隣にいた佐藤に話しかけた。佐藤のリアクションはない。
その研修医は最後までビールを飲みきれず、ブハッと吹いた。スーツもネクタイも泡だらけになり、さらに大ウケしていた。
◇ ◇ ◇