変わり始めた人生…切なくて温かい「ゴンママ」とあなたの物語 #5 大事なことほど小声でささやく
身長2メートル超のマッチョなオカマ、ゴンママ。昼はジムで体を鍛え、夜はジム仲間が通うスナックを営む。いつもは明るいゴンママだったが、突如独りで生きる不安に襲われる。そのときゴンママを救ったのは、過去に人を励ました際の自分の言葉だった……。高倉健、最後の主演作として話題となった映画『あなたへ』などで知られる作家、森沢明夫さんの笑って泣ける人情小説『大事なことほど小声でささやく』。プロローグと、第一章の一部をご紹介します。
* * *
「スナックひばり」の店内は、まさに本田の思い描いていた通りの空間だった。薄暗い照明の下に、八人がけのL字型のカウンターがひとつと、四人がけのテーブル席がふたつ。店のはじっこにはカラオケの機械があり、時代めいたミラーボールが天井からぶら下がっていた。
カウンターにはごっつい背中をした常連らしい男が一人いて、女性店員を相手に陽気な声をあげて笑っている。奥のテーブル席には中年の男女が横に並んで座り、いちゃついていた。
ようするに、日本各地のどこにでもありそうな場末のスナックの光景なのだった。ただ、他のスナックと決定的に違うのは、カウンターに立つ女性が、学級委員を思わせる、いかにもまじめそうな銀縁メガネの美女であることと、その美女のとなりに立ったのが二メートルを超える巨漢のオカマだということだった。
「カオリちゃん、お疲れさま。紹介するわね。今日、ジムでお友達になったケラちゃんよ」
「こんばんは。カオリです」
カオリちゃんと呼ばれた学級委員系メガネ女子は、本田を一瞥するとペコリと頭を下げた。その拍子に、おさげにした黒髪がピョンと跳ねる。妙にあどけない表情、そしてコスプレかと突っ込みたくなるようなバーテンダーの黒服。どう見ても未成年のようなのだが、まさかそんなことはないだろう。
「おーっと、ジムの仲間ってことは、僕ともお友達になっちゃいますね! ほらほら、よかったら、こっちにきて座ってくださいよ。二十四世紀の筋肉について熱く語り合いましょう。あはははは」
カウンターに座っていたごっつい男が陽気な声をあげて立ち上がったと思ったら、本田の肩を抱くようにして強引にとなりのスツールに座らせた。初対面にしては異常に馴れ馴れしいが、なぜかあまり嫌な感じはしなかった。むしろ、旧友に邂逅したような、照れ臭くも愉しいような気分にさせられてしまう。
「ケラちゃん、このゴツくて馴れ馴れしい金髪ソフトモヒカン男はね、四海良一さんっていって、こう見えても歯医者さんなのよ。見た目はコワいけど、嚙み付かないから大丈夫。みんなはセンセーって呼んでるわ」
「えええ、見た目がコワいだなんて、ゴンママにだけは言われたくないな。あははは。でも、そーなの、そーなの、僕は四つの海と書いてシカイなのね。歯科医だけに、シカイなんですよ。もう出来すぎでしょ? あははは。よかったら今度、うちのクリニックに遊びに来てくださいよ。ツルッと歯石を落として、ピッカピカにしちゃいますから」
金髪でソフトモヒカン頭のセンセーは、自分のジョークに自分で笑いながら、本田の背中をバシバシ叩いた。
「あ、じゃ、じゃあ、今度、ぜひ伺います」
本田は、センセーのマシンガントークに気圧されながらも、なんとか笑顔で応えた。
カオリちゃんが生ビールをジョッキに注いできてくれた。ゴンママと本田はそれぞれジョッキを持ち、センセーは飲みかけのウイスキーのグラスを手にした。カオリちゃんは、オレンジジュースだ。
「それじゃあ、ケラさんの筋肥大に、カンパーイ!」
センセーのかけ声に合わせて、四人でグラスとジョッキをぶつけ合った。
本田はゴクゴクと喉をならして、ジョッキを半分まで空けた。
「いやぁ、うまいなぁ」
思わず本田が目を細めると、それを見たセンセーが「やっぱりトレーニングの後のビールは最高でしょ」と笑う。
「そういえば、センセー、今日はジムに来なかったじゃない?」
ひと息でジョッキを空にしたゴンママが言った。
「うん、今日は歯科医師会があったの。ほんと、つまんない講習会だったからさ、もう途中から眠くて仕方なくて、こっそり机の下で腸腰筋のアイソメトリックをやってたよ」
「アイソメトリックって、何です?」
本田が首をかしげると、センセーが椅子をクルリとこちらに向けて、教えてくれた。
「簡単に言えば、静止したままの筋トレですよ。例えば、胸の前で拝むみたいに両手を合わせて、そのまま左右からギュッと力を加えると、大胸筋のトレーニングになるんです。全力で七秒くらい続けるとね、そこそこトレーニング効果が出るんですよ」
「へえ。そういうトレーニングもあるんですね。奥が深いなあ」
「そうよ、筋トレってオトコより奥が深いのよ。でも、ケラちゃんにアイソメトリックは向いてないわね。やったら怪しすぎるわ」
「え、どうして僕には向いてないんですか?」
「だって、あなた――」
それからゴンママが、「ケラ」という渾名の由来をおもしろおかしく話すと、センセーもカオリちゃんも手を叩いて喜んだ。
聞くところによれば、スポーツクラブSABのフリーウエイトゾーンには、他にも仲のいい常連がいるらしかった。
いわく、いつもスケベなことばかり考えている広告代理店の社長・末次庄三郎さん。渾名はシャチョー。年齢は六十八歳だというから、なかなかにお盛んだが、さすがにご老体のため、マッチョではないらしい。
二人目は、小生意気でシャイな現役高校生の国見俊介くん。顔立ちはアイドルみたいな美形だけれど、学校をサボったり、世の中を斜めに見ているふしがあって、そこがむしろジムの不良中年たちに可愛がられる理由なのだという。トレーニングもかったるそうにやっているから、いつまで経っても貧弱な少年体型をしているらしい。通称、シュン君。
そして最後は、謎のセクシー美女・井上美鈴さん。呼び名はそのままミレイさんで、年齢は二十五歳くらい。職業はどんなに訊いても教えてくれないそうだ。いつも胸元が大きく開いたウエアを着てジムに現れては、男たちの筋肉にペタペタとタッチするので、周囲のマッチョたちは片っ端からメロメロになってしまうという。
「そのミレイちゃんをね、なんとか落とそうとシャチョーががんばってるんだけど、これが絶対に落ちないんだよね」
センセーがおかしそうに言うと、ゴンママが「そりゃそうよ。ミレイちゃんはああ見えて、芯はお堅いイイ子なのよ」と言って、三杯目のジョッキをカッポリと飲み干した。この巨漢が飲むと、ジョッキがお猪口に見えてくる。
「まあ、そのうちケラちゃんも、みんなと会えるわよ。ね、センセー」
「そうそう。ケラさん、楽しみにしててくださいね。もうホント、濃い連中ばかりですからね。あははは」
いま目の前にいる二人がすでに充分に濃いんですけど――本田がそう思ったとき、それをカオリちゃんが代弁してくれた。
「ママとセンセーがいちばん濃いと思います。お酒で表現するなら、テキーラくらい」
「あらま、カオリちゃんたら、言うじゃな~い。テキーラはちょっと濃すぎよねぇ。せめてマッコリくらいにしといてちょーだい」
「じゃあ、僕は男らしくモッコリで! あははは」
センセーのベタな下ネタを本田は受け流したけれど、カオリちゃんは、ひとり頬をピンク色に染めながら、優等生っぽくクイッとメガネの位置を直した。そして、「ケラさん、次もジョッキでいいですか?」と笑顔で小首をかしげた。慇懃すぎず、かといって砕けすぎず、とても好感の持てる接客をする娘だ。
「はい。じゃあ、もう一杯もらいます」
そして、二度目の「筋肥大に乾杯!」をした。
乾杯で掲げたジョッキの重さに、いまさっきトレーニングで苛め抜いた肩の筋肉(三角筋というらしい)が悲鳴をあげて、ぷるぷると腕が震えたけれど、でも、それすらもなんだか心地よく思えるようなトレーニング初日の夜だった。
翌日も、その翌日も、さらにその先もずっと、本田はスポーツクラブSABにせっせと通い、ジムで汗を流し続けた。
ゴンママかセンセーに会えた日は、毎回みっちりと筋トレを教わり――というか、ドMとドSの関係でビシバシ調教され、そして噂の「濃い面々」とも知り合えた。
相変わらず、全力を出したときに「ウハハハ」という怪しい声が漏れてしまうけれど、それも「濃い面々」は笑って流してくれるのがありがたかった。シュン君だけは「おっさん、キモ……」と苦笑したけれど、まあ高校生の男の子なんてそんなもんだ。
本田にとって、ジムは第三の居場所になった。
家庭、会社、そしてジム。家庭で癒され、会社で疲れ、そしてジムで楽しみながら発散する。このトライアングルが確立されたことで、本田の生活は徐々に変わりはじめた。以前よりも気分が前向きになり、様々なことに積極的になれたのだ。
例えば、日々の食生活におけるカロリー摂取量を意識しはじめたし、煙草もスッパリとやめ、「スナックひばり」以外では、酒の量も半分になった。
ひと月もすると、ベルトの穴ひとつ分だけウエストが引き締まり、体重も五キロ落ちた。しかも、なんだか若い頃のように身体に覇気がみなぎってきて、満員電車でつま先立ちをしてみたり、会社の最寄り駅のひとつ手前の駅で降りて、ウォーキングをしながら通勤するようにもなったのだ。
さらに、しっかりと朝食を摂るようになったせいか、仕事にも集中力が出てきて、業績が徐々に上向きになってきた。部下の女の子に「本田さん、ちょっと痩せました? なんか若返った気がする」などと言われては、調子に乗って、若者が着そうなスーツを新調してみたりもした。絶縁されていたコンドームメーカーの清史郎社長には、何度も誠実な謝罪の手紙と新企画を送り続けていたのだが、ついに取引を再開してもらえたときには、うっかり涙をこぼしそうになった。
ジム通いをはじめて、ふた月経った頃には、ベルトの穴がまたひとつ変わった。ワイシャツの襟まわりのサイズも小さくなり、靴ひもまで締め直すことになった。顎の下の邪魔な肉もとれて、二重顎がスッキリ解消。
自分にちょっぴり自信がついてきたせいか、このところ本田は娘のご機嫌伺いをせず、むしろ父親らしく堂々とした接し方をしていた。
そして、ある晩、試しに、テレビを観ている彩夏の背中に声をかけてみた。
「おい彩夏、たまにはパパとデートするか? どこでも好きなところに連れてってやるぞ」
しかし、彩夏は、こちらを振り向きもせず、背中で断固とした拒絶を示すだけだった。
本田は、まあ、こんなものだろうな――と、ことさら軽く自分に言い聞かせてはみたものの、内心、肩を落としたことは認めざるをえなかった。
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