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砕け散った宝…美術修復士が謎を解くアート・ミステリ! #1 コンサバター

世界最古で最大の大英博物館。その膨大なコレクションを管理する修復士、ケント・スギモトのもとには、日々謎めいた美術品が持ち込まれる。すり替えられたパルテノン神殿の石板。なぜか動かない和時計。札束が詰めこまれたミイラの木棺……。一色さゆりさん『コンサバター 大英博物館の天才修復士』は、天才的な審美眼と修復技術を持つ主人公が、実在の美術品にまつわる謎を解くアート・ミステリ。物語の始まりを少しだけご紹介しましょう。

*  *  *

コレクション1 パルテノン・マーブル

ロンドン、大英博物館地上階にある「パルテノン・ギャラリー」は、時間のない来館者が真っ先に訪れる場所のひとつだ。その人気は古代エジプトのミイラやロゼッタストーン、モアイ像に匹敵する。

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壁面や台座に整列するのは、数百年前にアテネのパルテノン神殿から運ばれてきた、大理石の彫刻群――パルテノン・マーブルである。躍動的かつ純白なそれらは、頭部を含めた大部分を打ち砕かれてもなお、真善美を兼ね備えている。

そのひとつの前で、来館者の男性一人が、自撮り棒を片手に撮影を楽しんでいた。

女性監視員が近づいて声をかける。

「自撮り棒は禁止なんです」

その来館者は三十代半ばだろうか。国籍は分からないが、青味がかった瞳に、黒い巻き毛で彫りの深い顔立ちだ。L♡NDONというロゴの入ったTシャツを着て、風邪気味なのか、鼻をぐずぐずさせている。

「すみません」

彼は自撮り棒をすぐに折り畳み、鞄に仕舞った。

「いえ、いいんですよ」

監視員は会釈して、監視員用の椅子の方に引き返す。パルテノン・ギャラリーはとくに混雑する展示室だ。時間帯によっては殺気立つので、なるべく柔らかい物腰で対応するようにと指導されていた。

彼女自身も来館者に厳しく注意をするのは嫌いだった。そもそも監視員のアルバイトをはじめて五年になるが、たいした問題が起きたことはない。

聞くところによると、この展示室にあるパルテノン・マーブルは、壁にしっかりと固定され、いまだかつて外に運び出されたことはないという。つまり盗難に遭ったり、作品が倒れたりする心配はゼロなのだ。

だったら、さっきの男性のようになにも知らずに自撮り棒を使用する観光客を、そこまで警戒しなくてもいいだろう。

彼女は椅子に腰を下ろし、腕時計を確認する。

そろそろ交代かな。

百余りある展示室の三分の一が存在する地上階では、監視員たちは集中力を保つために各部屋をローテーションする。時間通り、となりの展示室から交代の監視員が声をかけてきたときだった。

束の間、彼女たちが作品から注意を逸らし、業務連絡をしている最中、いきなり大きな音がした。金属が倒れる音にも、なにかがバシャンと割れる音にも聞こえた。入り乱れていた複数の言語がしんと静まり返る。

その場にいた全員が、いっせいに音の方を見た。

パルテノン・ギャラリーは、大文字のIのような形をした長い廊下である。壁には、馬や兵隊の彫られた浮彫の石板がずらりと掛けられ、さらに廊下の両端のスペースには、人や動物を模した丸彫りの彫刻が展示されている。

監視員用の椅子は廊下の片隅にあり、そこから両端の空間には死角がある。音がしたのは、その死角からだった。

監視員は慌てて駆け寄る。

するとそこには、館内スタッフが「結界」と呼ぶ、作品と観客を仕切る金属製のポールが倒れていた。さらにその前では、さきほど声をかけた男性が自撮り棒を手に持ち、顔面蒼白で立ち尽くしている。

彼の足元に落ちている白い塊を見て、監視員は背筋が凍った。壁に掛けられていたはずの縦横一メートル以上、厚さ十センチもの浮彫の石板が、彼の胸の高さから落下していたからだ。イギリスのみならず全世界の宝が、粉々に散っていた。

まさか!

石板は壁から外すことができないのでは? 観光客がちょっとやそっとぶつかったところで、外れてしまうなんてあり得るのか? パルテノン・マーブルが落下するなんて、万が一にもないはずだ。

彼女は自分の目が信じられなかった。

誰かが漏らした悲鳴をきっかけに、シャッター音がつぎつぎと鳴り響く。

自撮り棒の男性は身じろぎもしない。駆けつけた警備員が、無線で状況を知らせる様子を眺めている。ところがその直後、自撮り棒の男性が口元にふと笑みを浮かべたのを、監視員は見逃さなかった。

その不可解な笑みは、自分が引き起こした大失態を受け入れられず、咄嗟に浮かべた混乱の笑みというよりも、慌てふためくスタッフたちに対する嘲笑に感じられた。しかしまもなく彼は警備員に取り囲まれ、外に連れ出されてしまったので、真相は分からず終いだった。

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アメリカ合衆国よりも長い歴史を持つ大英博物館は、高級ブランドや百貨店の立ち並ぶピカデリー・エリアの北東に位置する。その敷地は、深緑色の鉄柵に囲まれており、手荷物チェックの列が並ぶ正面玄関をくぐれば、記念撮影をする人々で混み合う石畳と芝生の広場に出る。

その奥にそびえ立つのは、迫力ある巨大な円柱回廊のファサードだ。ギリシャ建築の様式にのっとった柱の上部で、破風彫刻《文明の発展》が来館者たちを出迎える。

列柱のあいだを縫って館内に入ると、グレートコートと呼ばれる吹き抜け空間に出る。大英博物館のもっとも有名な空間のひとつであり、半透明のガラスになったその天井は、幾何学的な線で覆われている。

グレートコートの東側に位置する受付付近に、首からPRESSという通行証を下げた一人の日本人女性が立っていた。

その裏手にある大理石の階段から、別の日本人女性が息を切らして走ってきた。

「お待たせして大変申し訳ありません、糸川晴香と申します」

晴香はそう声をかけ、頭を下げた。

お互いに名刺を交換したあと、記者は言う。

「こちらこそお忙しいところ、取材の時間をいただいて、ありがとうございます。本日はどうぞよろしくお願いいたします……えっと、スギモトさんは?」

一瞬、晴香の笑顔が引き攣る。

しかし決して、上司のことを悪く言うわけにはいかない。

「せっかくここまで来ていただいたのに、本当に申し訳ないんですが、じつは『どうしても抜けられない急な用事』が直前に入ったようで、代わりに私が対応させていただくことになりました。それでもよろしいでしょうか?」

そう言って、晴香はまた頭を下げる。

だが内心、自分が取材を受けたわけでも、ましてや、それをすっぽかしたわけでもないのに、どうしてこんなに謝らなくちゃいけないのだとも思う。そもそもスギモトから急に取材対応を押しつけられ、状況もよく分かっていない。

女性記者は恐縮しながらも、残念そうに答える。

「スギモトさんがお忙しいなら、仕方ないですね。大英博物館に日本人とイギリス人の両方の血を引いた天才的な修復士がいらっしゃるっていう評判を聞いて、お目にかかるのを楽しみにしていたんですが……」

だったら、スギモト本人がいないと意味がないではないか、と晴香はさらに申し訳なくなる。すると記者は、晴香が渡した名刺を見ながら「糸川さんはアシスタント・コンサバターでいらっしゃるんですね?」と言う。

「はい。この博物館の修復部門で、紙の専門家をしています。常勤職員としては去年の九月からですが、それまで三年ほどアルバイトをしていたので、館のことや修復士の仕事については、ある程度お答えできると思います。よかったら、修復部門のラボをご案内さしあげますが」

「いいんですか」と記者は声を弾ませた。

晴香は胸を撫でおろす。

こういった来客を受けるたび、バックヤードに案内すると言うと、みんな例外なくわくわくした表情になる。晴香自身もはじめてなかに入ったとき、心が躍った。この博物館にはそうさせるムードがあるのだ。

それは世界最大、最古の博物館であると同時に、もっとも秘密の多い博物館でもあるからだろう。来館者が自由に出入りできるのは、伝統的な内装の一階から三階までで、その上階や地下には「関係者のみ」のバックヤードが存在する。

職員たちはそこで日夜さまざまな業務に従事しているが、その中核ともいえるセクションのひとつが、コンサベーション部門のラボだ。百人ほどの修復士たちによって、八百万点を超えるコレクションが順番にケアされている。

「大英博物館でアルバイトをなさる前は、日本にいらっしゃったんですか」と記者はグレートコートを歩きながら訊ねた。

「いえ、ずっと海外です」

「留学なさってたんですか」

「そうですね、ロンドンで修復の修士号をとったあと、ボストンの修復工房で二年、またロンドンに戻って市内の別の工房でも二年、見習いとして働いていました。その合間に、ベトナムや中国などで短期の修復プロジェクトに参加していたので、ある程度の修業を経てからここに就職したことになります」

晴香が言うと、記者は目を丸くした。

晴香は化粧っ気があまりなく、二十九歳という実年齢よりも若く見られることが多い。服装にもほとんどお金はかけず、H&Mのトレーナーとジーンズというのがデフォルトで、この国ではユニクロでさえも彼女にとっては高級品だ。だから経歴を話すとよく驚かれるが、今まで修復一筋でこつこつとキャリアを重ねてきた。

「国家資格とかは、必要なんでしょうか」

「イギリスやアメリカでは実力と経験さえあれば、美術館の修復士として採用されますが、イタリアやスペインでは長い教育期間と国家資格が求められると聞きます。日本ではそもそも修復士のいる美術館は少数で、独立した工房に勤めるとしても、十年は研鑽を積まないと一人前になれないって言われる厳しい世界みたいですね。では、こちらです」

受付の裏手にある大理石の重厚な階段をのぼり、踊り場にある古い木製の扉にセキュリティカードをかざした。リノリウムの廊下に出る。清掃や館内メンテナンスの告知が貼られた掲示板を横目に、さらに別の階段へとつづく。

階段を上がった先の扉を開けると、古今東西のメダルがガラスケースに陳列された空間に出た。

「あれ、また展示室に来ました?」

「そうなんです。二百五十年前に創設されて以来、展示室やオフィスの増設をくり返したせいで、迷路みたいにややこしい構造になってしまったそうです。だから自分の持ち場のラボに行くだけでも、こうやってバックヤードと展示室を交互に通り抜けなくちゃいけなくて」

「それは大変ですね」

「でも毎日いい運動になりますよ。ジム要らずです」

晴香が明るく言うと、記者は笑った。

「これだけややこしい構造だと、迷ったりしませんか」

「おっしゃる通り、迷いますね」と晴香は肩をすくめる。「スタッフ証を最初に受け取ったときは、持ち場からトイレと社食に行く道筋をまず憶えるように、と先輩から助言されました。恥ずかしながら私は方向音痴なので、今でも慣れないんですが、何十年と働いているスタッフでも、どこにどの課のオフィスがあるのか、全体像を把握してる人は少ないみたいですよ」

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コンサバター 大英博物館の天才修復士 一色さゆり

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