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「恋愛」とは自我の争闘である…上野千鶴子×鈴木涼美 #5 限界から始まる
女性学の第一人者で、東京大学名誉教授の上野千鶴子さん。東京大学大学院修了、AV女優、新聞記者を経験した異色の作家、鈴木涼美さん。『限界から始まる』は、この二人の一年間にわたる往復書簡をまとめた一冊です。「なぜ男に絶望せずにいられるのですか?」と切り込む鈴木さん。「恋愛は自我の争闘」であると語る上野さん。手加減なしの言葉の応酬に知的興奮が止まらない本書から、第三信「恋愛とセックス」の一部を抜粋します。
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女の快楽を受動的なものと思うな
快楽もまた学習されます。男のように単純な快楽と違って、女性の快楽の学習にはテマヒマがかかります。一度も性の快感を感じたことなく生涯を終える日本の女性は、年長の世代にはたくさんいたことでしょう。
70年代、高齢女性の性調査を行った保健師の大工原秀子さんのアンケートには、「あなたにとってセックスとは」という問いに対して、「一刻も早く終わってほしいあのつらいおつとめ」と書いた老女が、少なからずいました。
性の絶頂のことをエクスタシーと呼びます。ラテン語ではecstasis、定常状態から脱けでること、「脱自」「没我」「無我夢中」といいかえてもよいでしょうか。セックスに頂点があることは恵みです。なぜなら終わりがあるのですから。その絶頂を「小さな死」と呼ぶひともいます。
勃起はできるが射精はできない男性に会ったことがあります。射精障害と呼ばれていますが、「終われない」セックスはさぞつらいことでしょう。それを「小さな死」を受け容れることができないからだと説明したひとがいます。
他人のなかで「小さな死」を迎えること。それは自分を相手に委ねる絶対的な安心感のないところでは不可能です。かならず生き還ることが保証された安心感のもとで、初めてひとは自分に「小さな死」を許すことができます。
セックスは死と再生の儀式ですが、死へではなく生へとひとを引き戻す働きをします。
弔いのある日もっとも欲情す――ちづこ
わたしがまだ「俳人」だったころ、つくった句です。
エロスは死を否認します。戦場で兵士たちが女を抱いたのは、死への恐怖を打ち消すためでもあったでしょう。
もうひとつ、めずらしくエロティックな経験を書いた自分の文章を引用しておきましょう。ほとんど読まれなかった伊藤比呂美との共著『のろとさにわ』(平凡社、1991年)のなかで、詩人比呂美の刺激を受けて、がらにもなくついほとばしってしまったフレーズでした。
性交している時、わたしのからだが生きたい、生きたい、と叫ぶ。いきたい、いきたいと叫ぶ。わたしはからだの声を聞く。わたしは、からだを、いかしてやる。
そして、わたしは、いく。
女の快楽を受動的なものだと思ってはなりません。ひとはそれを自ら受け容れたときにだけ、快楽を感じることができます。同じルーティンをくりかえしても、女の側に能動的な「受容」と「没入」がなければ、快楽など訪れようがないのです。
「恋愛」は日本近代が生んだ翻訳語
あなたは30代になるまで多くの男性とセックスしてきたが、「恋愛」経験はない、とおっしゃいましたね。「恋愛」はわたしたちの世代にとっては特別なことばでした。ロマンティック・ラブ・イデオロギーにいちばん洗脳されたのは、団塊世代かもしれません。
洗脳装置は、少女マンガとTVドラマでした。『ベルばら』を熱狂的に支持し、老いてのち、『冬ソナ』にふたたび胸をときめかせたのは団塊世代の女性たちでした。「運命の対」にあこがれ、「赤い糸」伝説を信じた、最後の世代でしょう。
1968年に吉本隆明の『共同幻想論』(河出書房新社)が刊行されました。「共同幻想・対幻想・個人幻想」の3点セットからなるこの論考のうち、「対幻想」に焦点を当てる男性の論者はほとんどいません。
しかしわたしを含めて、吉本読みの女たちは「対幻想」に衝撃を受けました。「恋愛は論じるものではない、するものだ」と見なされていた時代に、恋愛が「論じるに値する」思想的な課題であることを示してくれたからです。
性が愛と分離したあとにも、特権的な「対」への幻想はなくなりませんでした。今では笑い話ですが、当時、「あのひと、〇〇さんと対幻想してるんだって」という表現が流通していたことを覚えています。異性愛が相対化されても、LGBTQのあいだでも「カップル」信仰はなくなっていないと感じます。
「恋愛」というのは日本近代が生んだ翻訳語です。前近代には「惚れる」とか「色好み」という表現はありましたが、「恋愛」という用語はありませんでした。近代になってむき出しの個人になることを強いられた男女が、「自我の争闘」である「恋愛」のゲーム場へと、「新しい男」と「新しい女」とをプレーヤーとして召喚しました。
近代文学史によれば「新しい男」の誕生のほうが歴史的に先行し、その「新しい男」たちが、「恋愛」というゲームを対等に演じてくれる「新しい女」はいないか、と求めたところに、「ここにいます」と手をあげたのが『青鞜』の女たちであることになっています。
『青鞜』の女たちにとっては「自由恋愛」は呪文のような魔力を持っていました。他のどんな社会でも決して男と同じように扱ってもらえない女が、唯一男と対等になり、場合によっては男の鼻面を持って引き回し、男に君臨し支配することも可能な逆転プレーができるゲームの場だったからでしょう。
中原中也の恋人を奪った小林秀雄は「Xへの手紙」でこう書いています。
「女は俺に(人間であれ、ではなく)男であれ、と要求する。俺はその要求にどきんとする」
女以外の何者にもなれない/なることを許されない女にとっては、男を人間からひきはがしてタダの「男」にむき出しにするのは、対等な「恋愛」ゲームを演じるための条件でした。
「恋愛」は自我の争闘です。わたしには「女」になるためにゲームの相手である「男」が必要でした。そして自分の女としてのアイデンティティが、男の存在に依存していることをふかく自覚していました。自分が「ヘテロセクシュアルな女」であることを自覚したのはそのためです。
わたしは自分のセクシュアル・アイデンティティが「ヘテロセクシュアル」であることを自覚したために、男を求めずにはいられませんでしたし、実際そのように行動しました。
ですが、恋愛というゲームのなかでは、女がその場に賭けるものと男が賭けるものとはけっして等価ではありません。女がアイデンティティを賭けているときに、男はその一部を賭けているにすぎません。
だからこそ、おまえのすべてをこの場に賭けよと執拗に迫ったのが『死の棘』の妻だったのです。吉本隆明が『共同幻想論』のなかで、島尾敏雄の『死の棘』を精密に論じているのはそのためです。
上野千鶴子
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