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テレビ出演をきっかけに大ブレイク。でも、心の底には葛藤があった #3 たどりつく力

貧しさ、いじめ、そして聴力の喪失……。でも、運命の扉は重いほど中が明るい! 数々の苦難と絶望を乗り越え、世界的ピアニストに登りつめたフジコ・ヘミングさん。著書『たどりつく力』は、その激動の半生をみずからつづった自叙伝エッセイ。心が折れそうなとき、逆風に負けそうなとき、読めばきっと勇気がわいてくる。そんな本書の中身を少しだけご紹介します。

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運命を変えたドキュメンタリー番組

母が九十歳で亡くなった二年後の一九九五年、長年のヨーロッパ生活に終止符を打ち、日本に帰国し、母が残してくれた東京・下北沢の家で暮らすようになりました。

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そのころは、左耳の聴覚だけが四〇パーセント回復していましたので、母校の旧東京音楽学校の旧奏楽堂などで少しずつコンサート活動を開始しました。

その矢先、一九九九年二月に私の運命を変えることになるテレビ出演の話が舞い込んできます。NHKのドキュメンタリー番組『フジコ~あるピアニストの軌跡~』と題した番組への出演です。

私は母親が残した下北沢の古い洋館の自宅でピアノを弾き、愛する家族である数匹の猫の世話をし、思い出話をしました。

ただそれだけでしたが、その番組が放送されるやいなや、大ブレイクが起きたのです

番組は何度も再放送され、続編が作られ、“フジコ・フィーバー”が日本中で巻き起こり、コンサートチケットは常に完売となりました。

同年夏にリリースされたデビュー・アルバム『奇蹟のカンパネラ』は空前の売り上げを達成しました。

その後も何枚か続けて録音したのですが、クラシックとしては異例の二百万枚を超える大ヒットを記録し、いまなお記録更新中となっています

でも、私は有名になることにはまったく興味がありませんでした。

お金が入ってきたため食べ物の心配をすることがなくなって救われた気分でしたが、それよりも一番うれしかったのは、またみんなに演奏を聴いてもらえることでした

クラシックは私たちの生きる糧になる

当時は、世界規模の経済不況がクラシック界にも多大な影響をおよぼし、低迷の時代を迎えていました。

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ソ連の崩壊により、国が育成した精鋭が国際コンクールに参加できなくなったことで西側の参加者たちのモチベーションも下がってしまい、スターが誕生しなくなったこと、カラヤンやバーンスタインのようなカリスマ性のある指揮者がいなくなったことなど、さまざまな理由が考えられました。

娯楽が多様化したことも一因に違いありません

日本もその例にもれず、クラシック離れが加速する一方だと心配されていました。

そんな暗い状況を「一気に吹き飛ばしたのがフジコの出現だ」といわれました

私の関知しないところでフィーバーは続き、コンサートは入りきれないお客さまでいっぱい。デビュー・アルバムに続く『永久への響き』『憂愁のノクターン』もビッグ・セールスを記録していました。

新聞や雑誌には、こんなことが書かれました。

「ひとりのスターの出現は、その世界に人々を招き入れる。フジコ・ヘミングの出現は、新たな聴衆をもたらし、日本のクラシック界の活性化につながった。しかし、フジコ・ファンはあくまでも“フジコのピアノ”を聴くことに興味があり、他のピアニストには関心を示さないように見える。ピアニスト本人のファンであり、クラシック音楽を幅広く聴くファンにはなりにくい」

こうした記事を複雑な思いで読んでいました。

私も自分のピアノを聴いてくれた人が、それを入口としてさらに奥へ、次なる段階として他のピアノ音楽、ひいては音楽全般に興味を広げていってくれることが、真の意味でのクラシック界の活性化ではないかと考えていたからです。

クラシックは、長い伝統と歴史によって培われた音楽です。その作品数は膨大で、演奏家も個性的な人が多く存在します。

芸術は永久性をもたらすものでなければならないといわれますが、まさにクラシックはその代表格です

私自身が長いヨーロッパでの苦闘の日々に音楽を精神の糧としたように、時代を超え、私たち人類の生きる糧ともなる、その深い魅力に多くの人が触れてほしいと願ってやみません。

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たどりつく力 フジコ・ヘミング

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