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手にした自由に振り回され…ハードボイルドの名手が描く、自伝的ギャンブル小説 #3 病葉流れて

学生運動、華やかなりし時代。上京したばかりの梨田は、麻雀と運命的な出会いを果たす。ギャンブルにだけ生の実感を覚え、のめり込んでいく梨田。そして、果てしなき放蕩の日々が始まる……。ハードボイルドの名手として知られた、故・白川道さんの自伝的ギャンブル小説シリーズ『病葉流れて』。その記念すべき第一作目より、冒頭部分のためし読みをお届けします。

*  *  *

授業が終わると、私は廊下で永田の出てくるのを待った。

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「けっこう素直なんだな」

永田が近づいてくるなり、にやりと笑みを浮かべながらいった。

「麻雀、強いらしいですね」

「寮に入ってるのか?」

永田が私のことばを無視するように訊いてきた。うなずくと、今度は私の名前を訊いた。

「――梨田ねえ、まあ俺の名前も教えとかなきゃ失礼だな」

永田はそうつぶやくと、永田一成とフルネームを私に告げた。

「アプシュルド、って?」

たぶん彼の癖なのだろう。私の問いに、永田が例のにやりとした笑みを口元に浮かべた。

「その意味のわからんうちは、絶対俺には麻雀では勝てんよ」

そういうと、永田は背を向けた。

たかだか六つしかちがわないのに、薄暗い廊下をさりげなく歩き去って行く彼の後ろ姿が妙に大きく見え、またずいぶん年の離れた大人のように私の目には映った。

その意味がわからないうちは――、永田のことばがひどく私を傷つけていた。

アプシュルド、アプシュルド……、私は胸のなかで何度かつぶやいた。

今度永田に会ったら、彼がそれをどうわかっているのか訊いてみよう。そう私はおもった。

だが、その今度という機会にはなかなか恵まれなかった。私の内心の期待もむなしく、それ以降、彼がぱったりと授業に顔を出さなくなったからだ。学園近くの麻雀屋に出入りしている仲間に訊いてみても、彼と麻雀をしたという話どころか、見かけたという噂すらも聞かない。

「あの変なやつ――」

「変なやつ?」

私は学食で隣り合わせた湯浅に永田の話を聞かせた。

「あいつ、アプシュルドなんていったのか」

湯浅がカレーを口に運びながら笑った。

「おまえ、第二外国語はドイツ語なのに意味わかってんのか?」

「私は実存した――、だよ」

「私は実存した?」

「カミュだよ、カミュ」湯浅がわけ知り顔で水を飲んだ。「無駄なこと、ばかげている。人生なんて価値付けしても意味がない、ただ生きてるだけ。まあそんな意味かな。不条理の世界ってわけ。その永田というやつ、実存主義かぶれじゃないのか」

「おまえが首っぴきで読んでたのは資本論だけじゃなかったのか」

湯浅が笑ってから、本を貸すといった。

外は夏の訪れを予感させるような太陽の光が降り注いでいる。

――私は実存した、か。なんか、格好いいことばだな。

湯浅と肩を並べて寮へと歩きながら、私はひとり胸の内でつぶやいた。

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大学生活の自由というのは、勉学心に燃えている者にとってはこの上なく役立つものだろう。なにしろ何の束縛もない。そこには自分で選択できる潤沢な時間が嫌というほど流れている。

その反対に、私のように、志も目的も目標もなく、ただのんべんだらりと入学してきた者は、そのありあまる自由にかえって戸惑い狼狽してしまう。手にした自由に振り回され、逆に自分をすら見失ってしまう。

入学してからほんの数か月にして、私にはすでにその予兆があった。

学園の土を踏み、最初に覚えたあの漠とした不安。それは生まれて初めて手にしたこの自由というものを、今度は自分の意思でコントロールしなければならないという、そんな目に見えぬ不安だったのかもしれない。

絶対、俺には麻雀は勝てない。そういった永田のことばへの反発、そして自分の心を落ち着かなくさせているこうした不安感から逃れるように、私は以前にもまして麻雀に打ち込むようになっていた。

だが、私は寮の外で麻雀を打つことはしなかった。それは夏休みが終わる秋口まで封印しておこうと心に決めていた。何しろ私には麻雀で負けるほどには経済的な余裕がなかった。寮のなかで行う麻雀など遊びに毛の生えた程度のもので、腕を磨くには持ってこいだが、博打と呼ぶにはあまりに可愛らしいものだった。

その一方で、私の枕元には湯浅が貸してくれたカミュの本を皮切りに、サルトルやキルケゴールなどの、いわゆる実存主義と目されている本も積まれていた。だが、何度読み返してみてもそこに書かれている内容は難解で、まったくといっていいほど私には理解できる代物ではなかった。とはいえ、その手の本を小脇に抱えることで、私は内心得意な気分も味わっていた。内容の理解はさておいても、なんとなく自分が大人の仲間入りをしたかのような心地に浸れるからだった。

女っけがないとはいえ、二十歳そこそこの若者が溢れるキャンパスである。青春のエネルギーが捌け口を求めぬわけがない。都心の大学クラブが主催するダン・パーと称するダンスのパーティ券が持ち込まれたり、合コンなるものの誘いがひっきりなしにある。昔からの伝統行事なのだろう、寮は寮で近場にある某私立女子大との合同催事が何かにつけては企画されていた。

だが、私はそれらのいずれにも参加はしなかった。女に興味がなかったわけではない。いやむしろまったくその逆だった。ただ私は、集団で何かをするのが小さい頃から生理的に合わず、単に苦手だったというにすぎない。

その点では湯浅も私と同類だった。私たち二人は、学園の始発駅である中央線の国分寺駅前の繁華街に暇を見つけては出かけた。目的は、その頃できつつあった「美人喫茶」という看板を謳い文句にした喫茶店へ顔を出すことだった。本屋で立ち読みし、お目当ての喫茶店、「南十字星」に通う。

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まだ十八歳、しかも田舎の青くさい女子学生しか知らない私にとって、その店で働く、化粧をし、きれいな衣服に身を包んだウエートレスはこの上なく大人の女に見えた。

ゆったりとしたソファのような椅子に腰を下ろし、コーヒーをすすりながら本を開く。むろん活字などが頭に入るわけもない。ウエートレスが側を通ったあとの、なんともいえない化粧の残り香に胸をときめかせる。そのなかのひとりがとりわけ私のお気に入りだった。どちらかというと小柄で、髪を肩口まで伸ばし、目のクリッとした、色白の女だった。

何度か通ううちに、湯浅もそれに気づいたらしく、その女の来る気配を察知すると、

「おい、来るぞ、来るぞ」

と私に合図してはからかう。

その途端に私はどきまぎし、読んでもいない本に狼狽した視線を戻した。

たまたまひとりで店に顔を出したそんなある日の帰りしな、その女が私にこっそりと小さな封筒を手渡した。うろたえる私に、女はにっこりと口元に笑みを浮かべると、すぐに背を向け足早にカウンターのほうへと戻っていった。

私は店を出ると、すぐに封筒を開けてみた。一枚の便箋に、わずか一行の文字が並んでいた。

「できるだけひとりで来てください。私は土曜日は休みです。 テコ。」

ひとりで来い、土曜日は休み……。私は胸の動悸を静めるように何度も読み返した。

ラブレターというものを貰ったことがないわけではない。高校生の頃、何度となくやりとりした相手もいた。だが、そんな経験がとても幼く感じられるほどに直截的な文面だった。

――テコか。

その名前からして、田舎ではほとんど耳にしない響きを持っている。

私はどこか自分が一段上の大人の足がかりをつかんだような気持ちを抱えて、駅への道をゆっくりと歩いた。

その日の夜、なかなか私は眠れなかった。湿った空気の充満する木製のベッドの夜具のなかで、テコの顔姿を頭におもい描きつつ、いつしか私は自分の分身にそっと指を伸ばしていた。

「おい、梨田、いいところに連れていってやる」

翌日の夕食のあと、同室の先輩二人に声をかけられた。立川にあるストリップ劇場だという。

「これからはなんでも見ておかなきゃいかんぞ。偏見は最大の敵だ」

ヌードの写真は何度となく目にはしていたが、私はまだ、大人の女の生の裸体を見たことがなかった。一瞬、テコの顔が脳裏をかすめたが、ストリップを観たからといって別に彼女が汚れるものでもないだろう。胸にそう言い訳すると、湯浅にも声をかけ、私たち四人は連れ立って勇躍立川に出かけた。

駅の北側の繁華街を抜けた、どことなく寂しい一角にそのストリップ劇場はあった。周辺には民家が軒を連ねている。妖しげな看板や写真になんとなく照れたおもいを抱きながら、私は先輩のあとにつづいた。

調子外れの生バンドに合わせて女が狭い舞台で踊っていた。赤や黄色のピンスポット照明が女を照らし出している。場内の明かりに目が慣れるにしたがって女の年格好や表情が見てとれるようになった。四十に手が届きそうな女だった。厚化粧のなかの顔が、どこかむくんでいる。女が薄いショールのような衣装を音楽に合わせながら一枚ずつ脱いでゆく。

「ひどいね」湯浅がいった。

「ああ」私は答えた。

この十八年間、淡い期待と共に頭におもい描いてきた女の裸体との最初の出会いは、うら寂しい無残な気持ちを私にもたらしただけだった。

目を逸らし、女の羞恥心を踏みにじっているその光源に視線を転じたとき、おもわずことばを発しそうになった。赤や紫の色彩パネルを忙しげに操作している照明係は、あの永田だった。

「おい、湯浅、永田がいるよ」

湯浅は永田が客として来ているとおもったらしく、私が投げた視線の方向をしきりに見回している。

「照明係だよ」

「照明係?」

湯浅がきょとんとした顔で、一瞬、私を見てから、照明パネルを一生懸命操作している永田に目をやった。

「アルバイトかな?」

湯浅が訊いた。

「本職でやってるわけないだろ」

「そうだよな」

野卑なかけ声とどこか調子外れのバックバンドの音。そしてそれに合わせて躯をくねらせている舞台の中年の女ストリッパー。ここがすでに何度目かになる先輩二人も慣れた態度で野次を飛ばしている。

「やはり、永田はアプシュルドだな」

湯浅が、ぽつりと口にした。

「どういう意味だい?」

さもわかったかのようにいう湯浅の口調に、私のなかにちょっとばかり反発心が頭をもたげた。

「だって――」湯浅がいった。「いくらバイトでも、俺やおまえにはあの真似はできないだろう?」

湯浅が私を見、そしてつづけた。

「でも永田にはできる。どうしてだろう、って彼を見ながら考えていた。ああやって照明を操りながらも、彼の姿からは、気恥ずかしさとか体裁とかいうそんなものへのこだわりを全然感じない。たぶん彼は、今の彼の地のままでやってるんだ。俺やおまえにあの真似ができないのは、まだ俺やおまえには自分の世界ができていないからなんだ」

「永田はもう自分の世界ができているってわけかい?」

「ああ、きっとね」

湯浅はそういうと、目を細めて、舞台の女と永田とを交互に見比べた。

それとアプシュルドとどう関係がある。そう湯浅に訊こうとしたが、私はことばをのみ込んだ。自分と同じく田舎者とばかりおもっていた湯浅が急に大人びて見え、私はなんとなく気後れを感じたからだ。

「お先に帰ります」

「馬鹿だな。これからがおもしろいのに」

引き止める先輩二人を残して、私と湯浅は一足先に劇場を出た。

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