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酒と麻雀の修業に励む…ハードボイルドの名手が描く、自伝的ギャンブル小説 #2 病葉流れて

学生運動、華やかなりし時代。上京したばかりの梨田は、麻雀と運命的な出会いを果たす。ギャンブルにだけ生の実感を覚え、のめり込んでいく梨田。そして、果てしなき放蕩の日々が始まる……。ハードボイルドの名手として知られた、故・白川道さんの自伝的ギャンブル小説シリーズ『病葉流れて』。その記念すべき第一作目より、冒頭部分のためし読みをお届けします。

*  *  *

私の大学は、一学年が、五、六百名、つまり全校合わせてみても学生数わずか二千四、五百名ぐらいにしかならない小さなものだった。

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最初の二年間をこの私鉄沿線にあるちっぽけな学園村で過ごし、専門課程に入る後期になると中央線沿線の国立にある本校へと移って行く。

四月に入る頃からしだいに学生の姿が増え始め、総勢百名前後の寮のほうにも次々と寮生が帰郷して来、今までとはうって変わった活気が学園全体を包むようになっていた。

だが、何かが欠けていた。春らしい華やいだものがないのだ。

理由は簡単だった。女子学生の姿がまったく見られないからだった。なにしろ、この大学での女子学生の数ときたら一学年にせいぜい一人か二人いるだけのもので、まったくといっていいほどに女っけがない。都心の私学に通う友人たちの話ではそれなりに艶っぽいものもある。その点では彼らをちょっぴりと羨ましくもあり、若い私の不満ともいえた。

入寮してからの生活は、私のそれまでの十八年間の生活とは百八十度変わったものになりつつあった。

「おまえな、ここにいると酒と麻雀だけは強くなるぞ。しかも、社会に出たらこの二つは役に立つ」

すぐに親しくなった同部屋の二人の先輩にまず最初に教えこまれたのが酒と麻雀だった。

私は先輩に渡された麻雀の入門書を片手に暇を見つけては、

「イー、スー、チー……、リャン、ウー、パー……、イッチョンチョン、ニパッパー、ニゴンロク、ザンパースー……」などと指を折りながら、呪文をつぶやくように麻雀のルールの習得に没頭していた。

この二人、一人は愛知、もう一人は山形の出身なのだが、学部もクラスもちがうとはいえ、妙に気が合うらしく事あるごとにつるんでは遊んでいる。

四人部屋の残るもう一人の先輩は、身体の具合を悪くしたとのことで、故郷の和歌山でしばらく療養する旨の連絡が入っていた。

「よかったよ、三橋が帰って来なくて。俺たちがここを出るまでゆっくり休んでいてほしいよな」

どうやら三橋という先輩は二人にとっては煙たい存在だったらしい。

「マルキストでな。うるせえったらありゃしない。何かといっては講釈をたれるんだ。どうせ就職シーズンになったら、何食わぬ顔で資本主義の僕になるくせによ。酒も麻雀もこの部屋では御法度だったんだから」

酒が切れれば、寮の裏手の酒屋へ走るのはむろん私の役目だった。酒の味がわかるわけでも飲み慣れているわけでもない。酒や遊びがわからなくちゃ男じゃない。そんな見栄に縛られていた私は、酒屋への道すがら、何度となく道端にしゃがみこんでは嘔吐を繰り返しつつも、ただひたすら酒と麻雀の修業に励んでいた。

こうした日々ではあったが、それでもどうやら私は幸せな部屋に入居できていたらしい。他の新入寮生のなかには、気難しい先輩や変わり者、あるいは学生運動命というような猛者に囲まれて閉口している者もかなりいるようだった。

寮生活というものを、もっとバンカラで、先輩後輩の規律にも煩く、いわば戦前の旧制高校タイプのようなものを想像してもいた私だったが、どうやらそれは杞憂に終わったようだった。

私の見るかぎり、この大学の学生は良くいえば穏健で、悪くいえば日和見主義の、体制に従順なタイプと受けとめることができた。

新学期のカリキュラムの選定も終わり、五月も過ぎると、私は授業にも馴れ、いくらか心の余裕も生まれ始めていた。そして湯浅以外にも、寮やフランス語のクラスのなかに、少しずつ友人らしき者ができつつあった。

「麻雀がうまくなったね」

寮の食堂に連れ立って出かけた湯浅がいった。

前日の夜、久しぶりに湯浅と部屋で卓を囲んでいた。結果は、先輩二人と湯浅を差し置いて、私のひとり勝ちだった。

「そうかい。ツイていただけだろう」

「いや、君は素質あるよ。だって、まだ覚えてから二か月ぐらいしか経っていないじゃないか」

内心私は得意だった。湯浅と同じことを、もう何度か部屋の先輩二人にもいわれていたのだ。

「それはそうと……」湯浅がちょっと躊躇してからいった。「今度、デモに行ってみないか?」

「デモ?」

「ああ、米軍基地闘争なんだけどね」

湯浅と同部屋の、二年留年している寮の副委員長は、寮内でも有数の学生運動の活動家だった。

湯浅のことばを耳にしながら、私は初めて彼と会ったときの、あの小動物を思わせる純な瞳をおもい出していた。あの瞳は何色にでも染めることができる、真っ白な輝きを持ったものだった。

「自分の意志でかい?」私は訊いた。

「――もちろん」湯浅の答に自信は感じられなかった。

「ついこの間までは、サイン、コサイン、タンジェントの世界にいたにしては長足の進歩じゃないか」

湯浅が一瞬顔を赤くした。私は構わずつづけた。「行くよ。でもな、闘争をしにじゃないぜ。それに活動をするためでもない。湯浅、おまえが友達だからさ」

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数日後、私と湯浅はデモの隊列に混じって、立川の近郊を、延々と十キロ近くも歩きつづけた。

初夏をおもわせる日差しと舞い上がる砂埃、そして誰もが同じ口調で叫ぶアジテーターの声。

「なあ、湯浅」私はいった。「最初におまえにいっただろう? 正義とか社会とか、どうもそういうやつに俺は弱いんだ。おまえは好きにやればいい。何しろ俺たちには時間がいっぱいある。でも、やるならとことんだぜ。とことんやらなきゃ、きっとなにもわかりゃしない」

湯浅がうなずいたようだった。

ある日、私は午前中のフランス語の教室にいた。後ろの席で何人かの仲間と他愛もない話に興じていた。

「あっ、あいつ――」

ひとりが声を上げた。教室の前方を見ると、首にスカーフを巻いた男が、教壇のある一段高い床に立ち、まるで教室全体を睥睨するかのように視線を投げている。男は、学ぶのはフランス語と麻雀だけでいい、といったあの男だった。

――やっと現れたな。

私は男の姿を見たとき、内心でひそかに男との再会を期待していた自分に気がついた。

「あいつ、雀ゴロだぜ。この間ひどくカモられた」

そう口にする学友は、クラスのなかでも麻雀が滅法強いと評判の男だった。

男は窓際のなかほどの席に腰を下ろすと、まるですべてのことに興味がないとでもいうような表情を浮かべ、ガラス越しに外を眺めていた。

「永田というんだけど、四浪の上に、もう二年も留年してんだぜ」

麻雀に負けたのがよっぽど悔しいのか、そう話す学友の口の端々には悪意が感じられた。

「四浪しようと、留年を二年しようとそれがどうしたってわけ? そんなの本人の勝手じゃないの」

東京の名門私学、現役ストレート入学、それに親は外務省勤務。どこかそれを鼻にかけた感のあるその学友に私はいった。

「だって、そんなんじゃ就職のとき、まともなところは相手にしないぜ」

「就職? まともなところ?」

学友は鼻白んだように黙り込んだ。

私は永田に近い斜め後ろの席に腰を据え、その授業の間中、ちらちらと視線を送りながら彼を観察した。

永田が講義に耳を傾けているふうはなかった。小説らしきものをパラパラとめくり読みしては、ふとおもい出したように、時々窓の外に視線を投げていた。

一度、長髪をかきあげる仕草をしながら後ろを振り返ったときに、彼の素顔を見ることができた。永田は意外とおもえるほどもの静かな顔だちをしていた。それにどことなく品も感じられる。

そのときになって初めて、私は実際の彼の素顔に対する印象を今まで持っていなかったことに気がついた。最初の出会いは、そのいでたちやとっぴな語りかけにばかり気を取られ、ただ単に、彼を包む雰囲気だけでとらえていたにすぎなかったのだ。

だが私の脳裏に残されていたその雰囲気にしてからも、きょうはどこかが微妙にちがった。初めて会ったあの日、春の日差しの下で私に声をかけてきた彼にはどこか溌剌としたものを感じたものだった。しかし、今そこに腰を下ろしている彼にはそんな生気を感じとることはできなかった。彼を包みこんでいるものは、疲労感というより、倦怠感に近いものだった。それは、高校生の頃に時々読んだことのある、虚無的で破滅型の主人公が漂わせる、あの一種独特の雰囲気にどことなく似ていた。つまり永田を覆う雰囲気というのは、この十八年間で私がいまだに接したことのない、しかしながら心の奥底では私がなんとなくある種の憧れを持っていた、そんな人種だけが持つ匂いともいえた。

学友のいう話が本当なら、永田は私より六つ年上の二十四歳になる。だが実際の彼は、私の目には、それよりはるかに年を食っているように見えた。

「若者はフランス語を択った。それに麻雀の特訓中でもある」

私はノートの切れ端にメモして小さく丸め、教師の目を盗んでそれを永田の席に放った。

一瞬、永田が怪訝な表情を浮かべ、私のほうへ視線をよこした。私はそしらぬふりで彼の目をやり過ごした。

永田はメモを開いて一読すると、笑いをこらえるように両手で頭を支えた。それからメモの裏側に素早く何かを走り書きすると、今度は私に向かってさりげなく放り返してきた。

私は丸めたメモを広げた。その裏面にはボールペンでフランス語の単語が一字だけ書き込まれていた。

「absurde」

習い始めたばかりでそんな単語の意味がわかるはずもない。私は手元の辞書を引き、その単語を調べてみた。そこには簡潔にこう訳されていた。「不条理な、非合理な、ばからしい」

――アプシュルド。

たぶんそう発音するのだろう。だが、どの意味で永田はこの単語を使ったのだろう。しかしながら私は、なんとなく意味がわかるような気もした。その単語の意味するところと彼から伝わってくる雰囲気に違和感を感じなかったからだ。

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