きっと、すぐ見つかるはず――。 行方不明少女を追う刑事の執念を描く警察ミステリー #2 雨に消えた向日葵
埼玉県で小学五年の石岡葵が失踪した。最後に目撃されたのは豪雨の中をひとりで歩く姿。誘拐か、家出か、事故か? 電車内で発見された葵の私物、少女に目を付けていたという中学生グループ……。情報が錯綜し、家族が激しく焦燥に駆られるなか、県警捜査一課の奈良健市は執念の捜査で真相に迫っていく。
警察ミステリーの新旗手、吉川英梨さんの最高傑作として名高い『雨に消えた向日葵』。ムロツヨシさん主演でドラマ化もされた本作より、冒頭の一部をご紹介します。
* * *
昇降口でスニーカーに履き替える。目の前は学校の東門だ。絵麻の家の車が停まっていた。葵はオレンジ色の傘を斜めにして、空に手のひらをかざした。
「あれ、もう止みそうだよ」
絵麻は車の助手席に乗ったところだ。運転席の窓が開く。絵麻の母親がハンドルを握っている。険しい表情だ。
「後ろに乗って。どうぞ」
「いえ、あの、ちょっと高麗川見てみたいんで、歩いて帰ります。雨も止んできたし」
葵は思わず、大声を出した。助手席の絵麻が不思議そうに葵を見る。「気をつけてね」と絵麻の母親は言って、あっという間に車を発進させた。
「おいおい、高麗川なんて絶対行くなよ。増水してたら危ないだろ」
昇降口の方から声をかけられた。よく日に焼けた顔が覗く。担任の浮島航大だ。わかってまーす、と適当に答えた。高麗川云々は乗車を断る言い訳だった。
「古墳の石室に忍び込んで、宮司さんからこっぴどく叱られたのはどこの誰だっけ?」
もう三か月前の話だ。学校に通報され、浮島からも怒られた。
「またそれ言うー」
葵は口をすぼめて、浮島を見上げた。浮島が少したじろいだように視線を泳がせる。
「四月の話だろ。忘れたとは言わせないぞ。寄り道はダメだ。気をつけて帰れよ」
東門を出た。田んぼの一本道を、鶴舞ニュータウンに向かって歩く。七月の午後五時とは思えないほど薄暗い。
あちこちに水たまりができていた。ナイキのスニーカーがあっという間に湿っぽくなる。土と雨の匂いは嫌いじゃないけど、もう靴下が濡れてきて不快だ。オレンジ色の傘を叩く雨音が激しくなる。また強く降ってきた。突然、人の気配を背中に感じてぞっとした。道の端に飛びのきながら、振り返る。
第六中学校の男子たちが、葵を追い抜いていく。傘を持っていない。びしょ濡れで悲鳴をあげているが、顔は面白がっている。制服の白いワイシャツが地肌に張りついていた。ひとりの男子中学生が傘の下の葵の顔を覗き込んだ。男子は髪を染めて不良っぽかった。彼らは走り去り、あっという間に見えなくなった。葵はひとりきりになった。
凄まじい雨になっている。
水のカーテンが葵を取り囲んでいるようだ。目を凝らしてやっと見えたのは、高圧電線の鉄塔だった。鶴舞ニュータウンと田んぼを分かつように、鉄塔がいくつか立っている。三角形に組まれた鉄骨が上に二つついていて、鬼みたいだ。
もう靴下までびしょびしょだ。走ると水がはねて余計に濡れる。傘から落ちた雨の雫が、Tシャツの内側に入った。背中がヒヤッとする。
水の幕の向こうに、車のヘッドライトが見えた。どんどん近づいてくる。
第一章 失踪
七回連続でバッグの中のスマホが振動している。石岡沙希は集中力を削がれた。講師の言葉が途切れて耳に届く。
「英語で点を稼ぐにはまず長文だ。長文の攻略なくして英語は点数稼ぎできない。公立で言うなら都立は問題の六割が長文だ、つまり長文を落とすと――」
講師の一言一句をノートに書き留めるので精いっぱいだ。スマホの電源を切る余裕がない。今度は短いバイブ音が聞こえた。メールを受信したらしい。
「長文を苦手と思う奴は夏期講習が始まるまでに、この問題集を最低五回は解いておけよ。寝ないで解け。食べる時間を惜しんで解け。無理なら難関校はあきらめて三流に行け」
ここは東京の池袋駅から徒歩五分の場所にある、東光義塾という学習塾だ。
中学三年生の沙希は都内の難関私立高校を狙っている。尊敬する父親の母校、都立東高校に本当は行きたかった。埼玉県に引っ越してしまったので不可能だ。いま両親は高裁で親権を争い、離婚が成立していない。
都内の難関私立高校といえば、埼玉県を含め首都圏の上位の生徒が狙っている。勝ち抜くには、受験まで一秒も無駄にできない。
スマホがまたバイブする。
生徒の何人かが振動音に気が付いて、周囲を窺う。みんなは私服を着ているが、埼玉県の中部から電車で四十五分かけてやってくる沙希だけは制服姿だ。灰色のブレザーに臙脂色のネクタイを締めている。部活のあと、自宅に帰って着替える時間がない。
沙希はシャーペンを放り出し、バッグの中のスマホの電源を切った。
「穴埋め問題だ。何度も言うが、絶対に長文を読むことから始めるなよ。まずは問題を先に読み、どこからどう出題されるのか概要を摑んで――」
中二の夏まで、坂戸市内では一番レベルが高い学習塾に通っていた。いつも一番で競争相手がいなかった。強豪ぞろいの都心の学習塾に移りたいと母親に願い出たが、「お金が……」と困った顔をされた。
沙希は父親に相談した。父親はお金持ちだ。合理的に物を考える人で、無駄だと思う会話や行動は一切しない。沙希が転塾の相談をすると、「請求書をうちに郵送して。払っておくから」とあっさり了承した。
長文問題を三つ解いたところで休憩時間になった。スマホの電源を入れる。母親からの着信が十五件も入っていた。何事かと、留守電を聞く。「葵がそっちに行ってない?」という用件から始まり、二件目、三件目と緊迫度が増した。妹の葵は豪雨の中、下校したらしいが、まだ自宅に帰っていないようだ。友人の家にもおらず、通学路や近所の公園にもいない。PTAにも情報を流してもらっているが、葵の姿を見た人がいないのだという。父親の元にも葵は訪ねていない。母親は最後、短いメールを送ってきていた。
『どうしよう、沙希。本当に葵の居場所がわからない』
沙希は冷静になろうと深呼吸した。母親のスマホに電話をかけたが、出ない。自宅の電話はすぐ留守電になってしまった。父親に電話をするが、やはり繋がらない。
沙希は葵と連絡をつけようと、一旦スマホの画面を切り替えた。考えてみたら葵はスマホもケータイも持っていない。SNSもやっていない。目白にいたころは父親が子供ケータイを持たせていたが、別居と同時に解約してしまった。葵はスマホを持っていない、という事実すらすぐに思い至らない――自分も混乱している。沙希は一度強く目を閉じた。
トイレに行けないまま、休憩時間が終わってしまった。
ノートと教科書を開いた。さっきまで一字一句正確に意味を読み取れた英語の長文問題が、いまは包装紙の柄のように見えてしまう。
葵がいなくなった。小学生といってももう五年、十一歳だ。ひとりで電車に乗れるし、都会育ちだから地下鉄にも慣れている。ふと思い立って都心に出て、ちょっと帰りが遅くなっているのだろう。講師がなにか言っているが、頭に入ってこない。
――妹がいなくなった。
バッグの中のスマホが再び、バイブする。講師が板書している隙にスマホを取り出した。机の下で操作する。父親からのコールバックだった。すぐにメッセージアプリに切り替える。
『葵、見つかった? 私のところには来てないよ』
そもそも、葵は沙希の学習塾の場所どころか、名前も知らないだろう。返信がきた。
『お父さんのところにも来てない。いま警察に通報させた。お父さんは仕事を切り上げて坂戸に向かう。沙希はどうする』
周囲を見た。講師の板書を、ライバルたちが前のめりでノートに書き取っている。一秒も無駄にできない世界。受験戦争なんて死語だと言う人は多いけれど、それは三流の話だ。一流の高校に行く人は大学に入るまでずっと戦争が続く。
『授業は九時半には終わるから――』
返信を打っていると、「おい石岡」と鋭い声が飛んできた。はっとして顔を上げる。
講師が睨んでいた。他の生徒たちも白い目で見ている。沙希はとっさにスマホを隠した。以前、授業中にスマホの使用が見つかり、教室から追い出された生徒がいた。つまみ出されることを覚悟して、沙希は身を縮こめる。講師が目を細めた。
「どうした。体調が悪いのか」
顔色が真っ青だと指摘された。沙希は思い切って言う。
「妹が、いなくなっちゃったと、家族から連絡が」
講師が目を見開く。
「妹? 何年生だ」
「小五です」
講師は掛け時計を見上げた。八時四十五分。講師が視線を沙希に戻す。
「家にすぐ帰りなさい」
東池袋のジュンク堂書店近くで、父のレクサスの助手席に乗り込んだ。
父親の呼吸が浅い。人が変わったように乱暴な運転をした。沙希は五分おきに母親に電話をする。葵は見つからない。状況は変わらず、時間だけが過ぎる。
関越自動車道を四十分走り、鶴ヶ島インターチェンジで降りた。坂戸バイパスを経由して県道74号に入り、十五分ほどで鶴舞ニュータウンに着いた。
いつもは閑散とした町が一変している。
消防団の法被を着た人たちが歩き回っている。道路脇を流れる用水路は幅が一メートル以上あり、転落防止のコンクリートの梁が設置されている。その隙間を覗き、懐中電灯で水面を照らして歩く消防団員の姿もあった。用水路の水深は十センチもないが、豪雨で増水しているはずだ。沙希が午後五時に坂戸駅発の電車に乗ったとき、ホームでも暴風雨が吹き荒れていた。
車の助手席から用水路の水底までは見えない。まさか落ちてしまったのか。背筋がぞっとする。
似たような住宅が続く中、父親は無言で目を方々に配り、車を走らせる。消防団の法被を着た人以外にも、警察官や母親と同年代の人たちが懐中電灯片手に、あたりを捜し回っている。
『広瀬』という表札の瓦屋根の家に到着する。母の実家だ。沙希も葵もここで暮らしている。警察官と消防士が立ち話をしていた。父親が車を路肩に寄せて降りる。二人に声をかけた。沙希はとにかくバッグを置いてこようと、門扉をくぐった。
猫の額ほどの庭に面したリビングから、明かりが漏れていた。夏は蚊が入ってくるので窓を閉めているが、玄関の扉も含めて全開だった。家から消防団の法被を着たおじさんが出てきた。六中の制服を見て、葵の姉と気が付いたようだ。
「きっとすぐ、見つかるからね」
スニーカーを脱いで上がり框に足をかけたところで、三和土のクロックスのサンダルが目についた。学校へ行くとき履いているナイキのスニーカーはない。
◇ ◇ ◇