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#2 読書と闘犬…直木賞作家が描く渋沢栄一の激動の人生

武蔵国の豪農に生まれ、幼少期からたぐいまれな商才を発揮した渋沢栄一。幕末動乱期、尊王攘夷に目覚めた彼は倒幕運動にかかわるも、一橋慶喜に見出され幕臣となり、維新後は大蔵官僚として日本経済の礎となる政策に携わる……。1万円札の「新しい顔」として、改めて脚光を浴びている渋沢栄一の激動の人生を活写した、直木賞作家、津本陽さんの『小説 渋沢栄一』。本作品の冒頭部分を、特別に公開します。

*   *   *

近郷に勇名をとどろかせた黒が栄一の手に入ったと知ると、闘犬を好む者はいちようにおどろいた。黒は「渋沢の黒」と呼ばれ、挑んでも挑まれても連戦連勝、闘犬の場では衆目をあつめた。

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そのうちに誰が妬んで手を出したのか、後肢がブラブラになるまで刃物で斬られる事件がおこった。

「これで、黒もおしまいか」

栄一たちは心配して懸命に介抱した。黒の深手はまもなく快癒し、以前にもまして強くなった。

犬を飼う家では、「渋沢の黒」がきたといえば、飼犬を家内に入れ、外へ出さないようにした。闘犬の場では、敵が吠えついてきても、ろくに顔を睨みもせず、機が満ちると聞く者の腸にこたえる吼え声とともに身を躍らせ、突然敵の喉に嚙みつき、相手が急所の痛みに堪えられなくなり、悲鳴をあげるとようやく離してやる。相撲でいえば横綱相撲であった。

その頃、いなかでは馬が病死すると野山の棄て場へ棄てた。この死馬の肉を犬に喰わせると、気性がきわめて荒くなってくる。熊五郎は馬棄て場から死馬の肉を切りとってきて食べさせていた。

栄一は闘犬ばかりに熱中していたのではない。読書にも熱心で、父市郎右衛門からたびたびたしなめられた。

「読み書き算盤は大事だが、お前のように青表紙に読みふけるのも考えものだ。百姓は田畑の仕事をするかたわら、藍の商いのやりかたを覚えにゃならねえのさ。本に凝るのも、ほどほどにしておきな」

たしかに栄一はあらゆる本を濫読した。

馬琴の作品は、ほとんど読んでしまった。

二里ほど離れた本庄という町に貸本屋がある。そこで本を借りて読んだ。本屋の小僧が月に二度、本を取りかえにくるのが待ち遠しく、自分で出向いてゆき、行き帰りの道筋に読み歩くので、通行人や牛馬に突き当りかけることがたびたびであった。

ある年の正月、晴れ着をつけたまま本を読み歩いていて、溝へ落ち、衣裳を汚して母から叱られたこともあった。

尾高藍香は、栄一が十四、五歳の頃、浜田弥兵衛、山田長政(?~一六三〇)など海外雄飛をした人、明国復辟運動をした日中の混血児、鄭成功(一六二四~六二)の伝記を貸してくれた。

栄一はそれを読み、非常におもしろく思ったので、作品についてさまざまの質問をした。藍香は問われたことをよろこび、弥兵衛、長政、国性爺(鄭成功)について、本に記されていなかったさまざまの逸話を語ってくれた。

栄一はその談話を夜が更けるまで、時のたつのも忘れて聞きいった。

藍香は、句読の授けかたに暗記のみを強いることなく、読書力をつけさせ、さまざまの作品を読解し、批判ができるような教授法をとり、それを、「はかどり主義」と称していた。栄一は藍香から、すべてにおいて無駄を嫌う精神を学んだ。わずかな時間をもなすことなく過ごさず、耕作、商い、計算帳付けをおこない、そのあいだに読書にはげんだ。

栄一が、書をはじめに習った師匠は父であった。成長すると父の実家を継いだ伯父である長兄渋沢宗助(号は誠室)に学んだ。宗助は唐様の書を好み、顔真卿(七〇八~七八四)、柳公権(七七八~八六五)を学んだ人である。宗助は、

「ここは伸びすぎている。ここは力が足りない」

と直してくれる。宗助は、

「栄さんはなかなかうまい。おれのあとが継げるよ」

といったので、世のなかが騒がしくなってくる十九歳の頃までは、熱心に修行をした。

渋沢宗助の子に新三郎という神道無念流の遣い手がいた。

栄一は幼い頃から新三郎に撃剣を教わった。新三郎は川越藩剣術指南役大川平兵衛の弟子で、はじめは免許皆伝を受けていなかったので、栄一を自分の弟子にできず、表向きは大川平兵衛の弟子ということにしていた。

のちに新三郎(後に宗助と改名)が免許皆伝となり、栄一(その頃は渋沢栄治郎といった)は神道無念流渋沢新三郎門人として、野州、上州辺りの剣術道場で試合をして歩いた。

同行するのは尾高藍香の弟長七郎、渋沢新三郎の弟喜作である。四歳と二歳年上の従兄たちは、栄一を弟のようにいつくしんだ。

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長七郎は撃剣の素質がきわめてすぐれ、力自慢の栄一は、重い石を揚げる力くらべではひけをとらなかったが、竹刀をとると子供扱いにされた。

長七郎も新三郎と稽古をすると、まったく打ちこめなかった。竹刀をとっての駆けひきの速さが違うので、新三郎は余裕を失うことなく、長七郎の攻撃を苦もなくしりぞけた。

その新三郎が大川平兵衛と立ちあうと、三本勝負でかならず二本はとられた。

長七郎はいった。

「大川先生が新三郎さんに一本をとらせるのは、わざとそうしているに違いない。あまり手きびしくやっつけちまったら、神道無念流免許皆伝の肩書きが泣くべえよ」

栄一は、撃剣が奥深いもので、生兵法は大怪我のもとであると身に沁みて知らされた。

しかし大川先生や新三郎に稽古をつけてもらっているときでも、たしかな一撃を見舞えることがある。どんな名人上手でも、まったく隙がないことはない。真剣勝負になれば、度胸のあるほうが勝つだろうと、栄一は自信を持てるまでに上達した。

後年、栄一はいっている。

「撃剣は目録をもらうところまでいったが、新三郎と仲違いをして、目録はもらわずじまいだったから、まあ田舎初段くらいのところだろう」

当時の初段は、現代の五段ぐらいであろうか。かなり上達すると、尾高長七郎、渋沢喜作とともに数回、他流試合に出かけた。

春、秋、冬の家業が暇になる時期で、十日間ほど諸方を泊り歩いて試合をする。血洗島に他郷から試合にくる者もいて、そのときは新三郎の弟子たちが集まってきて腕くらべをした。

新三郎は他人にむかうと威圧する性格で、誰も気やすく口をきけない。栄一だけが遠慮なく議論をしたので、彼と新三郎の仲がよくないという評判が立ったが、実際にはそんなことはなかった。

栄一は十四、五歳の頃までは、読書、撃剣、習字の稽古で日を過ごしたが、父市郎右衛門はある日、彼に申しつけた。

「十四、五歳にもなったら、田畑つくりと商売に心を入れんければならぬ。いつまでも子供のつもりでいちゃなんねえからな。これからは幾分かは家業を習って、商いの稽古をするがいい。

もちろん、本を読むのも儒者になる所存ゆえでもあるまい。それならひと通り、文字が読め、訳が分ればそれでよかろう。まだ十分とはいえなかろうが、追い追いに折りにふれて本をひもとき、心を用いて油断のないようにしろ。もういままでのように、昼夜読書、撃剣三昧じゃ困る。農業にも、商売にも、心を用いなければ、一家の益にはたたぬ」

田畑仕事は麦をつくり藍をつくり、養蚕のいとなみをすることである。

商売というのは、家でこしらえた藍はもちろん、他人のつくったものまで買いいれて、それを藍玉に製造して、信州や上州、秩父あたりの紺屋(染物屋、藍染業者)に送り、先方が売掛金を回収できた頃に勘定を取りにまわる。富山の薬売りのような掛売商売であった。

藍は農業というが、化学工業と販売業を兼ねた、かなり面倒なものであった。血洗島近辺は地味が蓼藍の栽培に適していたので、農民は藍をつくるのに精出していた。

七、八月頃には一番藍、二番藍と、径二尺五寸から三尺ぐらいになり、花が咲くが、そのまえに刈りとって葉をむしる。

それまでが農民の仕事で、そのつぎの寝かすという工程の加減がむずかしいので、農民はやらない。市郎右衛門のような農耕と養蚕、藍玉製造と販売を兼ね営む藍商人が、それを買い集め、藍玉にしあげて売るのである。

藍を仕入れるときは農家をまわり、品質の鑑定をする。

〆粕よりほかの肥料をやったことを見抜いたり、天気、地味、水利、栽培の巧拙で葉の品質に上下ができるので、それを見分けて仕入れ値をきめ、売主に納得させるのが、藍商人の技術である。

買い集めてきた藍を、納屋にむしろを敷き、そのうえに積みかさね、水をかけて上からもむしろをかぶせると、醱酵作用で熱が出る。それを「寝かす」という。

寝かすあいだ、水加減、むしろの厚みをいろいろに変えるので、手がかかるが、上手にすると、藍の色がよく染まるようになり、値段も高く売れる。

六十日ほど寝かせたあとで、灰汁を入れ、臼でつくと黒い餅のようなものができあがる。それを直径六寸ほどの団子にしたものが藍玉であった。

十一月頃にできあがった藍玉を、紺屋に売り歩く。どの紺屋も農民が片手間の、土間で染物をするような小規模な店であるので、何軒でも根気よく売り歩かねばならない。

越中の薬屋のように品物を先に送っておき、あとからたずねてゆき、使っただけの代金を支払ってもらい、あとの註文を聞いて帰る。

春と秋は紺屋の様子を見にゆき、正月と盆はかけ取りにゆく。むずかしく手数のかかる商いであったが、畑仕事だけではつくれない資産がたまってゆく。

藍葉の仕入れが巧みで、寝かせかたがいいと、一駄に十両、十五両と利益の出ることがあった。


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