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仏教の一部だけを切り取った「マインドフルネス」の危険性 #5 悟らなくたって、いいじゃないか

近年、瞑想やマインドフルネスがブームになったこともあり、仏教への注目度が高まっています。しかし、私たち「普通の人」は、欲望を捨て出家したり、修行して悟りを得たりしたいわけではない。そんな「普通の人」に、ブッダの教えはどう役立つのでしょうか?

その答えへと導いてくれるのが、タイで30年近く出家生活を送る日本人僧侶、プラユキ・ナラテボーさんと、気鋭の仏教研究者、魚川祐司さんの対話集『悟らなくたって、いいじゃないか――普通の人のための仏教・瞑想入門』です。一部を抜粋してご紹介しましょう。

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「マインドフルネス」ブームをどう見るか?


魚川 プラユキ先生は、アメリカで流行し、いま日本でも静かなブームを巻き起こしつつある「マインドフルネス」の運動について、どのようにご覧になっていますか?

プラユキ そうですね。mindfulnessというのは、本来パーリ語のsati(念、気づき)の訳語だけれども、アメリカなどで流行している「マインドフルネス」の運動は、「気づきの瞑想」であるウィパッサナーに由来しつつも、それをもっと心理療法寄りに解釈して、まさに「日常生活を上手くやる」ことに特化した実践を提唱していますね。

だから、先ほど指摘してくれたように、「マインドフルネス」の実践においては、仏教の「宗教的」な要素とされるものは、ほとんど排除されてしまっている。
 
それはそれで、人々の抜苦与楽の役に立つのであれば、もちろん悪いものではありません。ただ、私としては、そのように仏教の要素の一部だけを取り出して、それを人々が「利用」することに対する懸念というか、そのことの危険性も考えないわけではない

仏教というのは、戒・定・慧や仏・法・僧といった、全ての要素が一つになって機能する、有機的なシステムですから。
 
魚川 その「危険性」というのは、具体的にどういったことでしょう?
 
プラユキ 例えば、『マインドフルネス最前線』(サンガ)という本に、哲学者の永井均先生と精神科医の香山リカ先生の対談が収録されています。そこで、香山先生のご発言として、こんなことが言われているんですね。

ただでさえ政権が力を持って暴走ぎみの今、誰もが自分の実況中継に没頭するのは、やや危険な気もします。徴兵されても「今軍隊に入りました……銃を握りました……」と評価なしで自分を中継しそう。逆に私が為政者なら、「みなさん、ヴィパッサナーをやりましょう! 今自分に何が起きているか、評価せずにただ受け入れるのです」と言うかもしれない。

そして、これに対して永井先生は、

ありうることだと思います。どういう内容であれ、世俗的価値判断の成立するようなレベルを超えられる、というところにまでいかないと効果がないでしょうから。

と応じられている(引用は、前掲書p.55より)。
 
魚川 永井先生の言われることについては、仏教の智慧に関する原理論としては理解できますよ。私たちの対談の文脈で言えば、仏教の智慧の風光というのは、世俗の物語からは離れた「ベクトルのない」ものだ、ということですからね。

仏教全体を体系的に学んでほしい


プラユキ 私としては、そこで有機的な体系としての仏教全体を学ぶことの重要性を強調したいんですね。というのは、仏教というのは、やはり戒・定・慧の階梯において学ばれ実践されるものですから。

そこにおいては、まず不殺生などの戒を守り、その上で定によって心を整え、そうしたら智慧が出てくる、といった順序がある。

また、「次第説法」と称されていますが、ブッダが人々に法を説く際には、まず布施や持戒などの基礎的な教えを説かれ、それが正しく理解された後に、より高次な教えが説かれ、瞑想の指導もされた

このように体系を段階的、全体的に修行しているならば、「マインドフルネスによって銃を撃つ」ようなことは、起こり得るはずがないんです。
 
「持戒」の本義は、身体的、言語的な行動を慎み、他者を不必要に苦しめない、ということであり、「布施」は、自分の持っているもの(金品だけでなく自分が持っているもの、知識でも体力でも、温かい言葉でも優しい微笑みでもいい)を他に分け与える、ということですから、なにも仏教徒でなくても、そうした道徳的な行いを基礎にした上でマインドフルネスが実践されるのであれば、上述したような問題が起こることは避けられるし、有効に機能していくことでしょう。
 
魚川 それは、もちろんよくわかります。だから私も『仏教思想のゼロポイント』において、仏教における戒律の意義と重要性を強調していますしね。

私が「仏教が教える解脱のための瞑想を修することは、世俗的な意味で人格を『よく』することと、直接的には繋がらない」と言うと、怒り出す人がいるのですが、私はだからといって瞑想実践者の倫理を否定しているわけではありません。

「戒律を守る限り、瞑想実践者は社会的にも『悪い人』にはならない」というのは、私が各所で同時に強調していることです。
 
実際、これは日本の仏教の文脈ではあまり強調されないことですが、パーリ仏典において、ブッダの法と律というのは、多くセットで言及されるんですね。

真理を宣べ伝える法というのは、社会的な振る舞いの規範である律とともに学ばれるべきものである、というのは、ゴータマ・ブッダの頃からの仏教の基本方針であったということです。

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悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門


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