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「絵とピアノ」が両親からもらった私のとりえ…苦悩のピアニストの幼少期 #1 たどりつく力

貧しさ、いじめ、そして聴力の喪失……。でも、運命の扉は重いほど中が明るい! 数々の苦難と絶望を乗り越え、世界的ピアニストに登りつめたフジコ・ヘミングさん。著書『たどりつく力』は、その激動の半生をみずからつづった自叙伝エッセイ。心が折れそうなとき、逆風に負けそうなとき、読めばきっと勇気がわいてくる。そんな本書の中身を少しだけご紹介します。

*  *  *

女たらしで自由人だった父

私は第二次世界大戦の前にベルリンで生まれました。

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父親はロシア系スウェーデン人の画家で建築家のジョスタ・ゲオルギー・ヘミング。私が幼いころから絵を描くのが大好きで、いつも絵ばかり描いていたのは、父から受け継いだものかもしれません。

ただし、父はいつもいっていました。

「フジコ、絵描きにだけはなるなよ。食べていけないから」

父はベルリンにいたころ、まだ二十歳を少し出たくらいの新進デザイナーで、大手の映画会社の広告デザインを担当していました。

もっとも有名で、のちのちまで使用されているのは、マレーネ・ディートリッヒが主演した映画『上海特急』のポスターで、幻想的な絵です。

これだけは、私の誇りといえるものです

なぜなら、父は貴族の末裔でたいそう立派な家系に生まれ、教育もしっかり受けたはずなのに、本人は芸術家にありがちな自由主義。女性に対してもあまり責任を取るタイプではなく、いつもふらふらしているような若者でした。

母は、あとからそれに気づいたようですが、当時は二人とも若かったため、出会ってすぐ恋に落ち、結婚しました。

私が両親のことで覚えているのは、いつも喧嘩ばかりしていたということ。ベルリンでも日本でも、口喧嘩が絶えませんでした。

父は女たらしで、恰好をつけるタイプ。母はヒステリーで、気性がはげしく、思い通りにいかないとわめきまくる。

二人は性格をよく見極めてから結婚すべきでしたが、若かったからか、お互いの本質を理解しないまま一緒になってしまいました。

父を許そうとしなかった母

母親は東京音楽学校、現在の東京藝術大学の出身で、ベルリンに留学していたピアニストの大月投網子です。

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母の実家は大阪で工場を経営し、かなり裕福な家でした。母の父親が、明治時代に印刷用のインキを発明し、それで財を成したのです。

母がその時代にベルリンに留学できたのも、お金持ちだったからでしょう。

両親は私が五歳の時に日本に帰国しました。

でも、戦争の気配が濃厚で、外国人排斥の傾向が強かった当時の日本は、父のジョスタには住みやすいところではなく、やがて強制送還のような形で日本から追い出され、ひとりスウェーデンに戻ってしまいます。

母は、父について多くを語ろうとはしませんでした。私には三歳下のウルフという弟がいますが、幼い子どもたちを残して去っていった父を、母はけっして許そうとはしませんでした

何度か父から手紙がきて、「生活が軌道に乗ったら、家族をスウェーデンに呼びたい」といっていたようですが、母は頑として応じようとはしませんでした。

電話もかかってきました。

「何いってんの、ノーったらノーよ」と、叫んでいる母の声を覚えています

父から電話がかかってくると、私はすぐに代わってほしいため、母の隣にピッタリくっついて電話の向こうの父の声を聞き取ろうとしました。

「ハロー、フジコ、元気かい?」

はるかかなたから聞こえてくる父の声は、なつかしさにあふれ、私はいつまでも受話器を離そうとしませんでした

しかし、母はもう父に愛想をつかしていたのかもしれません。

女手ひとつで二人の子どもを育てるため、ピアノを教えるようになったからです。

自宅で生徒を教えることも多かったのですが、出稽古に行くこともあり、裕福な外国人の子弟のレッスンを必死でこなしていました。

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たどりつく力 フジコ・ヘミング

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