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父と二人で貴重な時間を生きる…現役医師が世に問う感動長編 #3 いのちの停車場

東京の救命救急センターで働いていた、62歳の医師・咲和子は、故郷の金沢に戻り訪問診療医になる。老老介護、四肢麻痺のIT社長、6歳の小児癌の少女。現場でのさまざまな涙や喜びを通して、咲和子は在宅医療を学んでいく。一方、家庭では、自宅で死を待つだけとなった父親から「積極的安楽死」を強く望まれる……。

現役医師でもある南杏子さんが世に問う感動長編、『いのちの停車場』。吉永小百合さん主演で映画化もされた本作の、冒頭をご紹介します。

*  *  *

ようやくすべての患者が落ち着いたときには、朝の五時を回っていた。

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咲和子は処置室の片隅で座り込み、目を閉じる。仮眠室へ戻る元気も残っていなかった。

「白石先生のときは、いつも当たりよね」

処置室の奥は、看護師の休憩所につながっている。どうやらそこからの声だ。

「あの先生、本当によく引くわよねえ」

咲和子がいるのに気づいていないようだった。

「でも、きょうは引きすぎでしょう。重傷七人って、ありえない。私、ここに十年勤めているけれど、これがマックスよ」

「さすがに先生、疲れてたよね。足がもつれて転びそうになってたもん」

「もう、お歳だからねえ。スタイルがいいのは認めるけど、そろそろハイヒールはやめた方がいいよね。駅のあたり、デコボコしてるし」

「救急隊から受け入れ要請が来たらウケる。白石咲和子さん六十二歳、池袋駅前で転倒骨折って……」

忍び笑いのあと、よしもとライブですごいネタを見たという話に移った。


数日後、咲和子は病院長から呼び出しを受けた。面談場所に指定された会議室はテーブルがコの字形に並べられ、高林院長や上杉副院長、救命救急センターの満島センター長と事務長や相談室長が顔をそろえている。

少し遅れて雨宮医学部長が部屋に入り、真向かいの席に座った。学長に次ぐ実力者である雨宮が来臨する面談とは、ただごとではない予感がした。咲和子が救命救急センターの副センター長だけでなく、医学部の准教授も兼務している関係に違いない。

多重事故の晩に受診した患者の家族からクレームが来ている――咲和子はそう告げられた。その患者は、事故の負傷者ではなく、ウォークインで受診した女の子だった。

「女の子は虫垂炎でしたので、消化器外科に依頼して助かった、と聞いています。どこに問題があるんでしょうか?」

咲和子は高林院長の意図を確かめようと表情を見る。だが、院長は無表情のままだ。事務長が説明を始める。

「アルバイト事務員の野呂聖二に点滴をさせた、という点です。ワイシャツ姿で腕カバーの彼が点滴するのを見た母親が大騒ぎしているんですよ。医者でない人間が娘の治療をしていたようだ、と。城北医大病院の重大な違法行為をマスコミに告発すると言ってきています」

雨宮学部長は腕組みをして目を閉じる。

咲和子は、混乱のさなかに残る記憶をたどった。あのとき少女に点滴をしたのは野呂だったのか。咲和子が女の子の所に戻ったとき、すでに消化器外科の当直医が来ていた。点滴はその医師が行ったと思っていた。マンパワーが足りず、「それぞれができることを進めていい」と言ったとき、背後で野呂が「よし」とつぶやいたことに思い至る。

「すみません、手が足りず、止むにやまれぬ状況もあって、私が指示したと受け取られても仕方がありませんでした。ただ、当夜の混乱した状況で……」

副院長の上杉が高い声を出す。

「それこそが問題なのです。重傷患者を七人も同時に受け入れるなんて、非常識にも程がある。限界を超えた人数を引き受けた責任は白石先生、あなたにあります」

「すみません、それはそうだったかもしれません」

咲和子は素直に認める。けれど、もう一度同じ事態が起きても、二人しか受け入れられないと突っぱねることはできないとも思った。命を救う行為に限界など設けたくはない。

「とりあえずの問題はですね、あの母親にどう納得してもらうか、ということです」

高林院長が静かに言う。雨宮学部長は目を開けたが、黙ったままだ。

咲和子は心を決めた。誰かが責任を取らなければならないとしたら、自分しかいない。現場の指揮をとっていたのは自分だった。

最終的な結果に対しては、常に責任を負う覚悟だった。そのつもりで日々、全力を傾けて救命に取り組んできた。年齢的にもそろそろ潮時だ。ここで身を引くのに、悔いはない。

「分かりました。私に責任を取らせてください」

誰もが口を一文字に結んだまま、その申し出を拒まなかった。咲和子は再び口を開く。

「ただ、あの現場にいたスタッフは全員、守ってください。野呂君のことも、です。お願いします」

咲和子は「長らくお世話になりました」と、頭を下げた。

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第一章 スケッチブックの道標


北陸新幹線の窓から外をぼんやりと眺める。軽井沢を過ぎたあたりで景色は一気に変わった。

いくつものトンネルを抜けるたびに車窓の眺めはうつろい、今は田園風景が広がるばかり。始発駅を取り囲んでいたオフィスビル群は、遠く去った。自分はもう二度と、逆順に展開するパノラマを見るつもりはない。

城北医科大学に入学するまでは、金沢に暮らした。十八歳の二月、受験で初めて上京した際、真冬にもかかわらず女性がパンプスを履いているのに驚いたものだ。故郷では、深い雪に足がはまる状態をゴボると言う。あのとき咲和子はゴボらないようにと、長靴で受験した。

医学部を卒業した二十四歳から三十八年間、救急医の仕事しか目に入らなかった。人の命を救う最前線にいる感覚で満たされ、何を犠牲にしても構わなかった。東京の街は昼夜を問わずに救患が押し寄せてくる。受け入れる救命救急センターは、常に熱気であふれていた。咲和子は、自分が燃料をくべられ続けた薪ストーブのようなものだった、とも思う。

ふと気づけば、周囲で働くのは自分よりもはるかに若い医師ばかりになっていた。六十歳を過ぎたころからは、仕事で頼られるというより、労わられる方が多くなった。暗い所で細かいデータが見えないため老眼鏡を手放せなかったり、小さな手術でミスしそうになって冷や汗をかいたりしたこともある。

あの晩、七人の重傷者を受け入れたのは正しい判断だった。だが、久しぶりに頼られた嬉しさに、舞い上がってはいなかったか?

仕事には全力で取り組んできた。大学病院を辞めることに悔いがなかったのは本当だ。一年ほど前から、世代交代の時を迎えつつあるという自覚はあった。自分以外のスタッフが救われるのなら、これを機に身を引こうと自然に思えた。

窓外に池が見える。そのほとりに一本だけぽつんと立つ老木の姿に目を奪われた。

実家の母は五年前に亡くなり、父は今、独りで暮らしている。父はもともと加賀大学医学部附属病院の神経内科医だった。講師止まりと出世はしなかったが、研究者としては一流だったと思う。土日は学会や研究会に出かけることが多かった。定年後もしばらく研究を続けていたが、八十を機に引退し、今は八十七歳と高齢だ。いくらヘルパーが毎日来てくれていたとしても、不自由なこともあるだろう。

五月になったばかりで、畑はまぶしいばかりに青々としていた。こうして新陳代謝を繰り返すのが自然なのだ。都会の生活で、薪ストーブは不要になったけれど、昔ながらの街ではまだ活躍の余地があるはずだ。むしろ今の自分にはちょうどいい環境だろう。

肩肘を張らず、また長靴生活に戻ればいいだけだ、と咲和子は思った。

午後一時半に金沢駅に着いた。古風な木造の鼓門と近未来的なガラスドームという不思議な組み合わせに建て変わった駅舎にはまだ少し慣れない。ただ、一歩外へ踏み出すと、どこか静かで湿っぽい空気を感じてホッとする。自分はやっぱり金沢の女なのだ。

タクシーで市の南側に位置する実家へ向かう。

金沢には犀川と浅野川という大きな川が流れており、その二つの川にはさまれて金沢城公園がある。浅野川の方が流れがゆるやかで風情があると言う人もいるが、咲和子は白い水しぶきを伴う犀川が好きだった。

犀川にかかる桜橋が見えてきた。そこは少し高台になっており、犀川と、そのほとりにある実家を見下ろすことができる。川に面した庭に松の木があり、目印のようにきょうもよく見えた。今でも父はたまに木に登って手入れをする。家自体はかなり古びてしまったが、松の葉は年を追うごとに、つやつやとした緑色の輝きを増している。

桜橋の手前でタクシーを降りた。家は犀川に沿って五軒目だ。

川堤を歩き始める前に、ほとりにあるベンチに腰かけた。重いスーツケースから自由になって、犀川をしばらく見ていたかった。

子供のころから、何かあると犀川を眺めて気持ちを整えてきた。加賀大学附属中学の受験を決意したときも、研修先の選択に悩んだときも、結婚生活に終止符を打ったことを両親に報告するときも、母が亡くなったときも――。

河原まで下りて行き、水際のギリギリに立つ。ザワザワとした水の音以外は何も聞こえなくなる。

この世で肉親と呼べるのは父だけだ。

ひとまずのんびりして、父とゆっくり過ごすつもりだった。しかし、いつまでも元気でいられる保証はない。ならば、父の望みはできるだけかなえてやりたかった。

父と二人で貴重な時間を生きるという思いが、水の音とともに高まるのを感じた。

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いのちの停車場

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