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#3 情報提供者との密会…公安調査庁を舞台にしたノンストップ諜報小説

公安調査庁の分析官・芳野綾は、武装した大量の中国漁船が尖閣諸島へ向けて出港、上陸して実効支配するという報告を受ける。しかし関連省庁はその情報を否定。綾の必死の分析を嗤うかのように、巧みに仕掛けられた壮大な陰謀がカウントダウンを始める……。作家、麻生幾が放つ『秘録・公安調査庁 アンダーカバー』は、極秘組織・公安調査庁を舞台にしたノンストップ諜報小説。予測不能、一気読み必至の本書より、物語の冒頭をご紹介します。

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だが、綾はそれでも、黄に対する慎重さは失わなかった。なぜなら、これまで黄が口にしてきた在日中国大使館以後の経歴はすべて偽装した身分ではないかと綾は疑っていたからだ。

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大使館員の時の実際の正体は、人民解放軍の情報工作機関である総参謀部第2部から派遣されたプロフェッショナルな機関員であって、今でも深い関係がある、と綾は判断していた。最初にそれを疑ったのは、ちょうど黄の獲得登録が工作推進参事官室で認められた直後のことだった。中国から初めて、海軍中将をトップとする海軍の水上艦数隻が日本を表敬訪問し、晴海埠頭に接岸した。その一週間前、黄が、パリのシャルル・ド・ゴール空港から福岡空港という迂回ルートを使って来日したことを、綾は、法務省入国管理局に張り巡らした情報網で把握していた。すでに何年も前に獲得、登録したと言っても、日本での黄の動向を常に把握しておくことが協力者の信用度を図る「情報査定」に資する、という分析官としての強いこだわりからだった。

だから警察にしても、軍との関係について強い疑いを持っているようで、黄を何としてでも協力者として獲得したい、その執念を今日のように諦めないでいるのだ。

黄がなぜ、自分に情報を寄越してくれるのか、その理由が単なるお人好しであるとは綾はもちろん思っていなかった。本来、プロフェッショナルな機関員を協力者として運用することには、極めて慎重でなければならないと、本庁の工作の中枢部門である工作推進参事官室から厳重なる指導がされているし、それが露見した場合、外交問題に発展することで外務省との関係が悪くなり、在外公館に調査官を派遣する人数の枠を削除される怖れがあることから、大使館工作に公然と反対する幹部が公安調査庁には多かった。しかし綾は、そんな声を発する者たちは、自分たちの仕事を一生かけても理解できない者たちだ、と思っていた。

大使館工作、つまり機関員に対する工作は、この密やかな世界に棲む者でしか理解できない。互いに認め合うプライドに浸れる瞬間を、黄にしても自分に求めているのかもしれないと思っていた。しかし、今夜のような接触においては、評価しあっているかもしれないが、互いに強い緊張感をもって相対していることを綾は感じていた。ゆえに、黄が自分をどのように利用しているのか、またはしようとするのか、そして敵であるのかそうでないのか、綾は、笑顔の裏で、警戒心を解いたことは一度もなかった。

しかし、今、綾の分析官という立場としては、実は、こんな現場での仕事は必要ないどころか、許されることではなかった。だが、黄は数年ぶりに連絡を寄越した。その時、“夕食でもどう? ”という言葉が含まれていたことで、綾は久しぶりの接触を決めた。かつて黄がその言葉を投げかけた時は必ず、重要情報の提供があったからだ。

微笑みながら綾は、メニューリストを手に取った。

「今夜は、任せてもらえますね?」

「楽しみです」

目を輝かせた黄はナプキンを膝の上に広げてから、「あっと、そうそう」と言って、脇に置いていたバッグから、キラキラ輝く金色の包装紙に包まれた小箱を取り出して綾に手渡した。

目を彷徨わせる綾に、黄が、どうぞ、という手振りをしてから、首をすくめてみせた。

包装紙を破った綾は、目を見開いて、黄を見た。

「日本語で何と? そうそう、軍事オタク──。軍事オタクの少女は、気に入りましたか?」

黄は、悪戯っぽい笑顔で綾の顔を覗き込んだ。

「少女って……」

綾は照れる風に苦笑した。

綾が小箱から取り出したのは、スタンドの上に乗っかった潜水艦の縮尺模型だった。

「先日、チンタオの海軍基地で、地域の住民を招いて、基地開放のお祭りがありました。知人の招きで、私、そこへ行きました。その時、それ、売店で売っていました」

黄はそう言ってから再び綾の顔を覗き込むようにした。

「当ててみて」

潜水艦を指さした黄が微笑みながら言った。

綾は、黄に顔を近づけて、

「漢クラスの原子力潜水艦──」

と囁き声で言った。

「驚きましたね!」と言って黄が目を見開いた。「ただし、スクリュー、偽物です。それ、国家、機密、だから」

「感激です! 本当にありがとうございます!」

満面の笑みとなった綾は深々と礼をした。その笑みは、協力者を運営するときに浮かべるそれではない、と綾は自身でもそう思った。職場では、ジェーン年鑑(世界各国の海軍に関する年鑑)を人形代わりに育ったんじゃないかと言われるほどの軍事オタクとして、冷ややかな視線をいつも浴びている。実際、横浜重工業で潜水艦の設計者だった父親が、時折持って帰る潜水艦の模型を人形代わりに遊ぶ少女だった綾の、今、黄に向けた笑顔は、プライベートにおいて二年前から付き合っている男に見せるものと同じくらいの最高のものだった。綾は、手にした潜水艦の滑らかに湾曲したそのフォルムに、美術品を見るような思いで惚れ惚れしていた。

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大勢の予約客が階段を登ってくるのが見えた。しかし、危険な臭いを発する者はいなかった。綾たちを取り巻くテーブルは瞬く間に客で一杯となった。だが綾は慌てることはなかったし、声を低くする必要もなかった。人目につく飲食店の場合は、仕事の話は決してしないことに決めていたからだ。いや、仕事は、すでに、テーブルの下での、あのわずか数秒間ですでに終わったのだから。

「今日は楽しくやりましょう」

笑顔のまま綾はそう言って小首をかしげた。

黄の優しい目を見つめながら綾は、この男に心底、惚れ込んでいる、と思った。その惚れ込んでいるという表現は、もちろん一般的な意味とはまったく違う。恋愛よりも遥かに人間的なことであって、彼のすべてを尊敬し、自らの魂をさらけ出して得られたことであり、それこそが“人間そのもの”に惚れているということだ、とあらためて思った。

黄が、男女関係になろうと露骨に口説いてきたのは、綾がかつて、“現場”にいた頃、ホテルの鉄板焼きレストランでの接触のときだった。コース料理の最後で、カウンターからソファラウンジへ場所を移し、最後のスイーツが出てきたとき、黄は口説くための雰囲気作りを始めた。つまり、綾の女としての幾つもの部分を褒めはじめたのである。綾は、その一つ一つに無言のまま笑みで応えながら、この男には本当に申し訳ない、と思った。そういった場面での対応に、綾は完全なる訓練を積んでいた。その技術は、相手によって変えるのだが、基本的には、女を口説くことがあなたにとってどれだけプライドを傷つけることか、つまり、あなたはセックスのことだけを考えているゲス野郎だと自覚させる、マインドセットを行った。それから彼は二度とそんな雰囲気を醸し出さなくなった。しかし綾は、黄に魂を注ぎ込み続けることに全力を傾けた。恋愛感情よりも強い心の結びつきだと思いながら──。

しかし、その関係は数年後に中断せざるを得なかった。綾が、三十四歳という若さで本庁の分析官に異例の抜擢をされたからだ。

そして、今、数年ぶりに、綾は黄の前に座っている。

食事を終えた黄は、綾とともにビルを後にして、神楽坂を下った外堀通りの交差点の手前で立ち止まった。

綾は最後の言葉を忘れてはいなかった。

「大事なお車は、降りられた所にちゃんと」

黄は、軽く頷いただけで視線を外し、遠くから近づくタクシーに手を上げた。

6月5日 日曜 午後8時10分 公安調査庁本庁

二度、タクシーを乗り換えた綾は、日比谷公園西側の霞門で降り、検察庁が入る霞ヶ関中央合同庁舎五号館の夜間通用口から入ると、地下で繋がった隣接の、法務省と公安調査庁が入る霞ヶ関中央合同庁舎六号館、その十三階でエレベータを降りた。

エレベータから廊下に足を踏み出した綾は、人けのない薄暗い空間を進み、表札のないドアの前に立った。そしてドア横のテンキーパッドにロック解除パスワードを打ち込んだ。

調査第2部第4部門の広い空間の執務室の中には二十ほどの机が並び、こんな夜遅い時間まで五人の職員がまだ残っていた。だが、綾に視線を向ける者は誰もいなかった。隣席どうしでも互いの仕事や行動について関心を持ってはならないこの“会社”のルールを作った者は、絶対にサディストね、と綾は思った。気分を壊すほどのこの冷たい空間と、氷のような職員たちの表情──到底、この世界に棲んでいなければ思いつかない、この“ルール”を作った者の姿を想像した。その想像は、十四年前、二十三歳で公安調査庁に入庁してから最初の、「公安研修所」での「一年目研修」の座学で教わった公安調査庁の成り立ちについての教官の講話の記憶や、先輩たちから聞いた“ナイショ話”を思い出して、脳裡に浮かべたものだった。

「公安研修所」とは、公安調査庁の一部門で、新人を情報機関員として、協力者工作や尾行などプロフェッショナルな訓練で鍛える場である。このシステムは警察にはない。そもそも警察の協力者工作は、指導と呼ばれるベテラン警察官からの協力はあるものの、根本は、先輩のやり方を見様見真似で、または自分自身の努力で覚える、という、いわば職人的な活動である。しかも、数年間の一般的な公安警察官の仕事をこなして特別な研修を経てから初めて「ZERO」の世界に入る。一方、公安調査庁は、警察とはまったくシステムが違っていることを綾はいつも念頭に置き、いわばライバル関係とも言える警察の行動の先読みをしていた。公安調査庁では、入庁してからすぐ、協力者工作を行う調査官を組織全体で完全支援して育て上げる。そのために公安研修所という“訓練機関”が存在するのだ。