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ついに見つけた虹は…疲れた心にやさしさが染み入る感涙小説 #5 虹の岬の喫茶店

小さな岬の先端にある喫茶店。そこでは美味しいコーヒーとともに、お客さんの人生に寄り添う音楽を選曲してくれる。その店に引き寄せられるように集まる、心に傷を抱えた人々。彼らの人生は、その店との出逢いと女主人の言葉で、大きく変化し始める……。

『ふしぎな岬の物語』のタイトルで映画にもなった、森沢明夫さんの小説『虹の岬の喫茶店』。疲れた心にやさしさが染み入り、温かな感動で満たされる……。そんな本作から、第一章「《春》 アメイジング・グレイス」をお届けします。

*  *  *

「わあっ」
 
犬に驚いた希美が、私の太腿に抱きついてきた。

「大丈夫だよ。犬がこうやって尻尾を振ってるときは、喜んでいる証拠なんだから」
 
私はしゃがんで犬の顎を撫でてやった――と同時に、あることに気づいた。しかし、それを先に口にしたのは、希美だった。
 
「あれ、この犬、脚がないよ」
 
右の前脚の半分から下がないのだ。
 
「本当だね。事故にでもあったのかな」
 
「かわいそう……」
 
希美はおっかなびっくり犬に近づいていき、背中をそっと撫でた。犬は嬉しそうな表情を浮かべ、おとなしく、されるがままにしていた。
 
やがて希美のなかの恐怖心が払拭されて、顎を撫でられるまでになったとき、犬はふいに回れ右をして喫茶店に向かってテケテケと歩き出した。そして、途中でこちらを振り返り、「ワウッ」と小さく吠える。
 
「ねえパパ、あの犬、こっちにおいでって言ってるんじゃない?」
 
「なんか、そうみたいだな」
 
試しに私たちが犬の方に向かって歩き出すと、犬はさらに少し進んだところで振り返り、再び「ワウッ」と鳴くのだ。
 
「やっぱり、呼んでるんだよ」
 
そして私たちは、三本脚の白い犬に案内されるようにして喫茶店の入口まで行き、流木で作られたドアノブを引いたのだった。

私たちが店のなかに入るのを見届けると、白い犬は、役目を果たしたとばかり、店の裏手へと消えた。
 
「いらっしゃい」
 
少し薄暗い店内から落ち着いた女性の声がした。振り向くと、火の入っていない古い薪ストーブの傍らに、初老の女性が立っていた。背は高くないが、すらっとした印象で、どこか上品なたたずまいがある。
 
「あ、どうも……」
 
意味のない言葉を発しつつ、私は店内をざっと見回した。思った通り、他にお客はいなかった。テーブル席が二つあるだけのこぢんまりとした店だが、海に面した壁に大きなガラス窓があるせいか、窮屈な感じはしなかった――というよりも、むしろ、その窓から見える風景は、とびきりの絵画とでも言いたくなるようなものだった。燦々と明るい海と空と草地と、そして遠くには富士山。構図も見事に決まっている。多少なりとも芸術かぶれの私には、まるで風景画を愉しむために作られた店のようにすら思えるのだった。
 
「ええと、この席で、いいですか?」
 
私は富士山がよく見える方のテーブルを指差した。
 
初老の女性がにっこり微笑んで頷いてくれたので、手前の椅子に私が座り、奥に希美を座らせた。
 
「何かお好きな音楽のジャンルはありますか?」
 
女性が笑みを浮かべたまま訊ねた。年相応の皺を刻んだその表情は、なんとも親しみやすい魅力的な雰囲気を醸し出している。しばらく眺めていたくなるような、そんな笑みなのだ。
 
「いや、音楽は、とくに……」
 
「じゃあ、このままスローテンポなジャズを流しておきますね」
 
「はい」
 
静かにきびすを返した女性の背中を見送ると、私はあらためて店内を見回した。奥の壁に設えられた木製の棚には、CDとレコードがびっしり並べられている。富士山と海原を望む出窓の上には、小さな白い花を咲かせた多肉植物の鉢や、曲げた鉄板を溶接して作られた猫のオブジェなどが飾られていた。飴色に光るアンティークな木のテーブルには、小さな正方形の和紙が置いてあり、そこに丁寧な筆文字でメニューが書かれていた。無垢の木材を張り合わせた天井と壁と床板は、よく見れば、あちこちに隙間があって、素人の手作りっぽさが丸出しになっていた。水色に塗られた木の窓枠にも塗りムラが目立つ。しかし、不思議なことに、そういった作り手の「粗」が、むしろこの店にはしっくりきているように思えるのだった。無機質な機械で合理的に作られた直線と直角だけの建物とは違い、「粗」も含めた人間の手作業によるぬくもりが店内にふわふわと満ちていて、妙なくらいに居心地がいいのだ。
 
「ご注文は、お決まりですか?」
 
初老の女性が、希美に穏やかな微笑みを向けながら、テーブルの上に二つのお冷やを置いた。
 
「ええと、岬ブレンドと、林檎ジュースをお願いします」
 
私がそう答えたとき――。
 
「あ、虹!」
 
目を丸くした希美が、窓の外ではなく、私の背後の壁を指差して歓声をあげた。
 
「え?」
 
私は釣られて後ろを振り返った。
 
そして、思わずあんぐりと口を開けてしまったのだ。
 
「うわぁ……これは」
 
いい絵だなぁ、と言おうとしたのか、きれいだなぁ、と言おうとしたのか、あるいは、驚いたなぁ、と言おうとしたのか、自分でも分からなかった。とにかく、私たちはついに出会ったのだ。息を呑むような、美しい虹と。
 
「パパ」
 
希美は、今日いちばんの笑顔を浮かべていた。
 
「うん。ついに、見つけたな」
 
希美はストンと椅子から降りると、オーダーをとりにきた初老の女性の後ろをくるりと廻って私の横に立った。そして、「ねえ」と破顔したまま私を見上げて、こう言った。
 
「ハッピーのどきどき、あるよ」
 
私は、きょとんとした顔の初老の女性に、目で「ちょっと、すみません」と伝えると、椅子から降りてしゃがみ込んだ。そして、希美の胸に耳を押しあてた。
 
とくとくとく……。
 
小さな心臓は、まるでスキップでもしているような、軽やかな音色を奏でていた。
 
「希美のどきどきがパパにも伝わって、一緒にハッピーになれたよ」
 
私は、希美のほっぺたを両手で挟むようにして、絵本と同じ台詞を口にした。

すると今度は、私と希美のやりとりを見ていた初老の女性が、手にしていたトレーをテーブルに置いて、希美の傍らにすっとしゃがみ込んだのだ。
 
「ねえ希美ちゃん、おばちゃんにもハッピーのどきどき、聞かせてくれる?」
 
「え?」と、間抜けな声を出したのは私で、希美はくるりと振り返ると「いいよ」と微笑んで、女性に向かって胸を反らすような姿勢をとったのだった。
 
「ありがとう」
 
初老の女性は、にっこり笑うと、「どれどれ?」とつぶやきながら希美の背中をそっと抱くようにして、胸に耳を押しあてた。
 
「まあ……、これは本当に素敵などきどきね。おばちゃんもハッピーになっちゃったわ」
 
初老の女性は顔をあげ、目がなくなるほどしわしわの笑顔を浮かべてから、希美の髪の毛をそっと三回撫でた。そして、そのままの笑顔をこちらに向けた。
 
「宝物、ね」
 
「はい……」
 
私は照れ臭くて、ちょっとはにかみながら頷いた。希美はそんな私と初老の女性とを、にこにこしながら見比べていた。
 
それから私は、もう一度あらためて、後ろの壁に飾られた虹の絵を眺めてみた。光の粒子をちりばめたような見事なオレンジに染まった夕空と海。そこに、神々しいような虹が架かっている。虹は、空と海よりも一段と輝いていた。額のなかの世界は、とても絵画的で、現実離れしたような光彩を放っているのだが、しかし、海の向こうに描かれた半島の形や富士山の配置からすると、この店の窓の外に広がる風景を写生したことは明らかだった。
 
「いち、にぃ、さん……」希美はその絵を見上げながら、指折り数をかぞえはじめた。「ろく、なな……はち。あれ?」
 
「あれれ?」
 
私は言いながら、思わず笑った。
 
「パパ……。虹、八色だよ」
 
「なるほど。そうか」
 
「絵だから、かなぁ……」
 
希美が首をかしげると、初老の女性が口を開いた。
 
「あの絵はね、本物の虹を見ながら、そっくりに描いたんだって。だから、きっと本物も八色あったんだと思うわ」
 
「そっかぁ。じゃあ、八色の虹って本当にあるんだね」
 
希美は、私と初老の女性を交互に見上げた。
 
「そうらしいな。パパと希美は、とくべつな虹を見られたんだ」
 
「私もいままで数えたことなんてなかったから、一色、得をしちゃった気分よ」
 
「すごいんだね、あの虹」
 
私たちは、なんとなく、小さな秘密を三人で共有したような素敵な気持ちになって、しばらくの間、虹の絵を眺めながら互いに笑顔を向け合った。

初老の女性の名は柏木悦子さんといった。コーヒーをテーブルに置いたときに、店の名刺も一枚添えてくれて、そこに彼女の名前が書いてあったのだ。
 
悦子さんのいれたコーヒーは、たとえようもないほど優しい風味だったので、ひと口飲んですぐに、私はため息をついてしまった。さらに、カップまでが素敵だった。縁が丸みを帯びたハート型だったのだ。内側だけにクリーム色の釉薬をかけた、焦げ茶色のカップだ。
 
「洒落たカップですね」
 
ついつい陶芸家目線になっていた私が、思ったままを口にすると、悦子さんは、でしょ、といった感じの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 
「希美ちゃんのハートをイメージして選んだカップなのよ。これで飲んだら、コーヒーの味もハッピーになるかなって思って」
 
「ありがとうございます……」
 
私はちょっと面映い気分になって、もうひと口、コーヒーを啜った。希美はストローで林檎ジュースを一気に半分くらい飲んでしまった。
 
「ひとつ、訊いてもいいかしら」
 
薪ストーブの脇に置かれた丸椅子にちょこんと腰掛けて、悦子さんが言う。
 
「え? はあ……」
 
私はカップを皿の上に置いた。
 
「さっき、虹の絵を見たとき、ついに見つけたなっておっしゃってたけど……」
 
「ああ、それはですね――」
 
しかし、そこから先を言ったのは希美だった。
 
「パパとね、虹さがしの冒険をしてたの」
 
「虹さがし?」
 
「うん。朝ね、マンションから見えた虹が、どっかにいっちゃったから、さがしてたの」
 
悦子さんは目を細めて、慈しむように希美を見詰める。
 
「そういうことだったのね。それで、ようやく見つけたのが、この絵のなかの虹だった、と」
 
「はい」
 
ここでようやく二文字だけ私が答えられた。
 
「じゃあ、私と同じ旅をしてたのね」
 
「え?」
 
「私もね、虹さがしの冒険の途中なの」
 
どういう意味だろう……。
 
私は首をかしげて悦子さんを見ていたけれど、悦子さんは、ふふふ、と意味ありげに笑ったと思ったら、林檎ジュースを飲み終えた希美に話しかけた。
 
「希美ちゃん。おばちゃんが作ったバナナの味のアイス食べる?」
 
「うん!」
 
「じゃあ、ご馳走してあげる。ハッピーを分けてもらったお礼ね」
 
「え、そんな……」
 
「いいの、いいの。まだメニューにない試作品のアイスだけどね」
 
「すみません、なんか……」
 
悦子さんはもう一度「いいのよ」と言って厨房に消えると、すぐに茶色い葉っぱの形をした陶器の皿にアイスをのせて、希美に「はい、どうぞ」と差し出した。
 
「ありがとう」
 
スプーンでひと口食べて「美味しい」と顔をあげた希美は、「これ、ママにも食べさせてあげたいなぁ。甘いの大好きだから」と、小さな声で言って、窓の外の青空を眺めた。

◇  ◇  ◇

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虹の岬の喫茶店


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