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CANCER QUEEN ステージⅡ 第2話 「傷痕」



    キングはドクター・ジャックのアドバイスどおり、手術の翌日からリハビリテーションを始めた。見るからにたいへんそう。彼は傷口が痛むことより、点滴用のスタンドを押しながら歩くことのほうが煩わしいようだわ。スタンドには、傷口から出る血液や膿を溜めるドレーンの管とか、尿道カテーテルとか、ほかにもいろんなものがぶら下っていて、気をつけないと、管がからまったり、外れたりしそうなの。

    キングは毎日がんばって、少しずつ歩く距離を延ばしている。今朝はナースステーションの周りを2周もした。看護師さんたちはニコニコと手を振って励ますの。彼も痛みに堪えながら、なんとか、頼りない笑顔を返しているわ。 

    手術のあと、外科部長とドクター・ジャックが、毎朝そろって回診にくるようになった。毎回、ドレーンに溜まった赤い液体の量をチェックしている。
    そのあと、ドクター・ジャックはキングに「あー」と言わせながら、できるだけ長く息を吐くように指示するの。

「あーーーーーーー」

    キングは喉から声を搾り出すようにして息を吐く。ドクター・ジャックは、これ以上無理というまで息を吐かせてから、今度はわざと咳をさせる。キングは無理に咳をすると、胸に響いて、ものすごく痛そう。それでも、「はい、結構です」と言われるまで、彼は顔を真っ赤にしながら、何度も何度も繰り返すの。
    なんだか、ドクター・ジャックはキングをいじめて喜んでいるみたい。医者はサディストでないと務まらないのかしら。

    じつはこのとき、ドクター・ジャックは赤い液体のほかにもう一つ、ドレーンに溜まった青い液体のほうをチェックしているの。そのなかにわずかでも空気が漏れていると、ドレーンを外すことができないらしい。 
    昨日は3回やっても駄目だった。いったいいつまで、こんな苦行が続くのかしら。キングじゃなくても、うんざりよね。

    ところが、今朝はなんと1回でパスした。これで煩わしいドレーンともようやくおさらばできるわね。手術から3日後に外せるのは、早いほうみたい。いっしょに尿道カテーテルや、背中から痛み止めを入れる細い管なども全部外すことができた。キングは久しぶりに晴れ晴れとした表情で、大きく深呼吸をした。
   でも、ラッキーちゃんから尿道カテーテルを外してもらうときは、やっぱり少し恥ずかしそうだった。彼女はプロの看護師さんなんだから、そんなことを意識するほうがおかしいのにね。

    キングが元に戻れたのはうれしいけれど、わたしのせいで左肺の半分もなくしてしまって、なんと言ってお詫びをしたらいいのか。傷の痛みはこれから1ヶ月以上続くようだし、辛いリハビリもまだ始まったばかりよ。
    わたしさえいなければ、そんな苦痛を味わわなくてもすんだのにと思うと、どうしてわたしは復活してしまったのか、自分で自分を呪いたくなる。

 ドレーンが外れて初めて、彼は手術の傷痕を見た。洗面台の鏡に恐る恐る背中を写すと、左の肩甲骨の下に、弓のように湾曲した20センチメートルほどの赤い傷痕がざっくりとついている。まるで、日本刀でばっさりと切られた痕のよう。もし彼がやくざだったら、さぞかし箔がついたでしょうね。

    この傷痕は紋章のように、これからもずっと彼の体に刻まれたままだわ。それはわたしが彼の肺のなかにいた証拠でもある。そう思うと、彼には申し訳ないけれど、わたしはちょっとうれしくなった。これからは、もう2度とご迷惑をおかけしないように、ただひたすらおとなしくしていますから、どうかお許しください、キングさま。  

    新米看護師のラッキーちゃんは、彼の幸運の女神には違いないのだけれど、少々おっちょこちょいなのが心配。ときどきなにかを忘れて病室にくるか、逆になにかを忘れていく。

    昨日の朝は、検診をすませてから、

「すみません。血圧を測るのを忘れました」

    と言って、ひょっこり顔を出した。
    今朝は、退院してからの注意事項が書かれた書類を忘れてきたみたい。あわてて取りに戻ったわ。
    その『肺の手術を受けた患者様へ』というタイトルのパンフレットには、38度以上の発熱があった場合の連絡方法とか、傷の管理の仕方とかが細かく書かれていた。

「もう退院の話なんだね」

 と彼が言うと、ラッキーちゃんは、

「そうなんです。まだ退院日は決まっていませんが」

 と、少し寂しそうな顔をした。

「もう入院はしたくないけど、あっちゃんに会えなくなるのは寂しいな」

    キングはいかにも残念そう。

「こんな新米の私ですが、大王だいおうさんには、ほんとうによくしていただきました」

    彼女がしんみりと頭を下げると、彼は思い出したように、

「あ、そうだ。あっちゃんは、このキャラクターは好き? よかったら、これ持っていって」

 と言いながら、昨日、奥さまが持ってきたイラストの切り抜きを見せた。奥さまはその黄色いねずみのキャラクターが大のお気に入り。

「え、いいんですか? うれしい!」

 と、まるで子どもがおもちゃをもらったときのように、彼女はパッと笑顔に戻った。
    やっぱり、幸運の女神には笑顔のほうが似合うわね。 

「女房が好きでね。いっぱいあるから、遠慮しないで持っていって」

「ありがとうございます」

 ラッキーちゃんが足取りも軽く病室を出ていったあとには、回収されるはずだった使用済みのタオルが、テーブルの上にぽつんと置かれていた。 

 今日は午後から新しい患者さんが入院したので、病室の4つのベッドはすべて埋まった。
    新入りの新田さんはキングと同年輩のようだ。頭にはすっぽりと毛糸の帽子を被っている。

「吐き気はありますが、ものは出てきません」

    と新田さんが言うと、彼の主治医が、

「頭に放射線を当てたので、炎症を起こしているせいかもしれません」

    と答えた。新田さんは手術ができないほどがんが進行しているようで、抗がん剤と放射線の両方の治療を受けているらしい。

 キングは前からいる患者さんたちとは、ときどき言葉を交わすようになっていた。
    隣の安藤さんは70歳くらいの、温厚な老紳士といった感じ。いつも楽しそうにお孫さんの話をする。きっと、いいおじいちゃんなのね。 
    安藤さんは肺がんではなく、間質性肺炎という病気らしい。ドクター・ジャックが手術前の説明で、怖い話だけれどキングには当てはまらないからと言って、説明を省略した合併症の一つだ。
    キングは気になって、改めて説明書を読み返してみた。そこには、

『極めて危険で命に関わる肺炎です。…… 原因は未だ不明な、肺が壊れていってしまう病気です。治療をしても有効でない場合があります』

    と、書かれていた。安藤さんは当然、自分の病気のことはよく知っていると思うけれど、自分からその病名を口にしたときは、それほど深刻な雰囲気ではなかった。

「入院は長いんですか?」

    と、キングが聞くと、

「抗生物質を使っていまして。今月1日から入院しています」

 と、安藤さんはあっさり答えた。もうすぐひと月になるのね。
    この間質性肺炎の患者が、さらに肺がんの手術を受けると、肺炎の症状が悪化することもあるらしい。
    それで、ドクター・ジャックは、肺炎にかかっていないキングには関係ないと言ったわけね。それにしても、安藤さんはどうしてあんなに平然としていられるのかしら。

 ドア側のベッドには、キングよりずっと若い石田さんが寝ている。まだ40代かしら。とても礼儀正しくて、感じがいい人よ。
    石田さんは歯を磨きに窓際にある洗面台にきたときに、座っているキングに気がついて、あわてて挨拶をした。
    洗面台はキングのベッドの目の前にあるので、彼がカーテンを開けていると、そこにくる人はみんな、「お邪魔します」と言ってから歯を磨くのだった。
    石田さんは抗がん剤治療の真最中らしい。

「手術はしたのですか?」

    と、キングが遠慮がちに聞くと、石田さんは、

「いえ」

    とだけ答えて、それ以上話そうとはしなかった。石田さんも新田さんと同じように、手術ができないほど進んでいるのかしら。がんは若い人ほど進行が速いというから心配だけれど、どうやら主治医の話では、石田さんはまだ放射線を当てるほどではないらしい。

「よかった!」

    カーテンの向こうから、石田さんのほっとした声が聞こえてきた。
    その会話を、すでに放射線治療が始まっている新田さんがじっと聞いている様子なの。狭い病室ではいやでも話が聞こえてくるから、つい自分と比べてしまうのね。
    カーテンの内側でそれぞれの病気と向き合いながら、周囲の会話に一喜一憂する患者さんたちの、切ないため息が聞こえてくるようだわ。   

    キングは手術ができただけでも幸運だった。傷が痛いなんて贅沢なことは言えないわ。でも、「明日は我が身」かもしれないのよね。 

    同室の3人はこれまでどんな人生を送ってきたのかしら。「袖振り合うも多生の縁」と言うから、今こうして枕を並べていることも、きっとなにかの縁ね。
    この先どうなるのかは「神のみぞ知る」ことだけれど、この病院で再会することだけは避けたいわね。

   どうか 一日でも早く、みなさんの病気が治りますように!


(つづく)

前回はこちら。
第1話「復活」

次回はこちら。
第3話「退院」





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