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CANCER QUEENステージⅡ 第1話 「復活」


【これまでのあらすじ】

 《ステージⅠ》

    キングは健康診断で肺に影が見つかり、再検査の結果、主治医のドクター・エッグから肺がんと告知された。クイーンはがん細胞でありながら、キングの肺の中で、彼の体を気遣うのだった。
    キングは死の恐怖と闘いながらも、これからの人生に目標を立てることで、生きる覚悟を決めた。精密検査の結果、キングは肺腺がんと診断され、手術を受けることになった。
    クイーンは後ろ髪を引かれながらも、キングとの別れを決意するのだった。

ステージⅠはこちら

 

   

     夢を見ていた。わたしはたった一つの、ほんの小さな細胞だった。真ん中に大きな目のような核があって、それがきょろきょろと周りを見回している。キングの肺の中で、わたしというがんの赤ちゃん細胞が誕生した瞬間だ。人間の赤ちゃんもこんなふうに生まれてくるのかしら。      わたしの細胞はしばらくじっとしていたあと、突然、分裂を始めたと思ったら、見る見るうちに膨らんで、あっというまに彼の片方の肺の半分を占領してしまった。

「そんなに大きくなってはだめ!」

    と、わたしは必死に叫んでいた。
    するとどこからか、まるで死神が持つ大きなカマのようなメスが飛んできて、わたしを切り刻んだ。わたしは怖くて身動き一つできないうちに、バラバラにされてしまった。

「キング、助けて!」

 そう叫んだ瞬間に目が覚めた。とても怖い夢だった。

     ここはどこ? わたしは死んだの?
    頭がぼーっとして、なにも思い出せない。
    ふと見ると、キングが酸素マスクで鼻と口を塞がれたまま、ベッドに横たわっていた。
    え! まさか、死んでないよね?
   そうだ、彼は手術をしたんだ。きっと、まだ麻酔から覚めていないだけなんだ。
    手術は成功したのかしら?
    彼が生きているんだから、そのはずよね。でも、わたしもまだ生きている。
    ということは、失敗?
    もしそうなら、どうしよう。彼ときっぱりお別れするつもりだったのに。わたしがまだ生きていると知ったら、彼はどんなに悲しむだろう。     キング、本当にごめんなさい!

    彼の顔がゆがんだ。手術で切られた胸と背中が痛むようだ。
    かわいそうに! 
    でも、わたしはちょっぴりほっとした。だって、痛いと感じるのは生きている証拠だもの。
    彼は右手でしきりに左の胸を撫でている。左肺の上半分は切り取られてしまったのに、まだそこにあるように感じるみたい。

    彼は麻酔を打たれたあと、若い看護師さんが抱きすくめるようにして、背中を押さえていたことまでは覚えているようだ。
    それが朝の9時頃だから、かれこれ10時間近くも眠っていることになる。

    わたしも少しずつ思い出してきた。気管支鏡検査のときと同じように、彼の脇腹から目のついたヘビのような胸腔鏡が近づいてきて、じっとわたしを観察していた。わたしは今度もヘビに睨まれた蛙のように身動き一つできずにいた。すると、彼の背中のほうから肋骨を切る音がしたと思ったら、鋭いメスがわたしをめがけて一直線に迫ってきた。

「キング、助けて!」

    と、わたしは思わず叫んだ。
    わたしが思い出したのはここまで。気がつくと、真っ赤な液体の中を泳いでいた。

    あれは夢じゃなくて、現実だったのね。今は彼の肺ではなく、血管の中をものすごい速さでぐるぐる回っているの。まるでジェットコースターにでも乗っているみたい。
    なんだか、少し楽しくなってきちゃった。ごめんなさい、キング。

    これで治療は終わりかしら。でも、わたしが生きているんだから、きっとまだ続くのよね。まさか再手術はないと思うけれど、病理検査の結果次第では、抗がん剤か放射線治療をやるのかな。
    こんなことなら、丸ごと、きれいさっぱり切り取ってくれればよかったのに。
    ドクター・ジャックのへたくそ! もっと腕のいい外科医だと思ったのに、わたしの見込み違いだったわ。
    なんてこと言うと、罰が当たるかな。 

    ああ驚いた。突然、男性の声がするんだもの。どうやらこの部屋には、彼の他にも患者がいるようだ。
    看護師さんが何か話しかけているけれど、その患者さんは意識が朦朧としているのか、大きな声で訳のわからないことをわめいている。ここがどこだかわからないようだ。さっきまでのわたしと同じだわ。
    看護師さんは他の患者にも、順番に声をかけていく。隣の人はとても病人とは思えないほど若々しい声で返事をしていた。

    キングの番がきた。彼は名前と生年月日を聞かれて、一生懸命答えようとしたけれど、声がかすれてうまく返事ができない。隣の人はなぜあんなに大きな声が出せるの。彼と同じ肺がんじゃないのかしら。でも、集中治療室にいるんだから、手術はしているはず。患者によってずいぶん状態が違うのね。キングの容体はあまり良くないのかな。わたしには見守ることしかできないなんて、悔しいな。

    キングはうとうとするたびに夢を見ているようなの。わたしもいつのまにか、また眠ってしまった。ふと目が覚めると、奥さまがベッドの横に立っていた。彼はまだ夢の中だと思っているようで、ただぼんやりと奥さまを眺めているの。すると、奥さまが小さな声で、

「大丈夫? 痛くない?」

    と、聞いた。それで夢じゃないとわかって、彼は虫が鳴くような小さな声で、「大丈夫」と答えると、また眠ってしまった。奥さまはしばらく心配そうに見ていたけれど、もうすぐ面会時間が終わるというので、しかたなく帰っていった。 

    彼はよく眠れないみたい。さっきからなんども寝たり起きたりを繰り返している。傷が痛くて寝返りが打てないから、上を向いたまま目だけを動かして辺りを見回しているの。
    部屋は真っ暗だけれど、あちこちで赤や青の小さな光が、まるで闇に浮かぶネオンのように点滅している。ときどき、モーターのようなかすかな機械音も聞こえてくる。
    よほど痛みが酷いのね。彼は看護師さんがくるたびに、痛み止めの薬をねだっているの。 

    突然、部屋の灯りがついた。朝かしら。でも、まだ外は暗そうだけれど。      
    しばらくすると、看護師さんが様子を見にきた。驚いたことに、その看護師さんは彼のベッドの横に立った途端に、大きな咳をしたの。彼は反射的に身をよじったので、激痛が背中を走って、思わず「うっ」と呻き声を上げた。
    看護師さんはマスクをしていたけれど、手術直後の彼に風邪でも移されては大変よね。
    でも、看護師さんは何事もなかったように、彼のほうに向き直ると、いきなり、

「今日は何日ですか?」

    と聞いたの。彼は面食らったみたい。手術の合併症で意識が混乱するせん妄のことは聞いていたけれど、まさか日にちを聞かれるとは思わなかったのね。 

「昨日手術したはずだから、今日は20日ですか……?」

    と、自信がなさそうに、かすれた声で答えた。 

大王だいおうさん、安心してください、正解ですよ」

    看護師さんの言葉に、彼はほっと胸を撫で下ろした。

    しばらくして、朝食が運ばれてきた。

「え! もう食べられるの?」

    わたしはさっきからずっと彼の血管の中を泳ぎ回っているから、もうお腹がペコペコ。早くブドウ糖を摂らないと、栄養失調で死んでしまいそうよ。      
    ところが、朝食は他の患者さんだけで、彼にはなかったの。ぬか喜びとはこのことね。

 ググー、グググー 

   今の音は、わたしじゃなくてキングのお腹よ!
    食べられないとなると、他の患者さんたちの食事の音がやたらと大きく聞こえるものね。
    むしゃむしゃ、くちゃくちゃと、耳障りったらありゃしない。もっとお行儀よく食べられないのかしら。

     忌々しい音がようやく収まって、彼がまたうとうとし始めると、今度は、別の看護師さんたちが患者の体を拭きにきた。食事のあとに清拭のサービスだなんて、至れり尽くせりね。
   食事抜きの彼でも、このサービスは受けられた。看護師さんたちは手術着を手早く脱がせると、上半身を温かいタオルで丁寧に拭いていく。彼が気持ちよさそうに目を閉じていると、足を拭いていた看護師さんが、

「こちらもやりますよ」

    と、いきなり彼のおむつのバンドを外し始めた。不意打ちを食らって、彼は慌てて目を開けた。おむつの下にはもちろん何もはいていない。そのとき初めて、彼は大事なところに尿道カテーテルがつけられているのを知った。看護師さんとはいえ、若い女性にあられもない格好にさせられて、恥ずかしいやら、腹立たしいやら、彼は困惑した表情で、だまってされるままにしていた。
    でもよく考えたら、彼が知らないだけで、麻酔で眠っている間に、手術着に着替えさせたり、尿道カテーテルを入れたりするときに、看護師さんたちは彼をスッポンポンにしているのよね。 

    午後になって、ようやく一般病棟に戻ることができた。検査入院のときと違って、彼は行きも帰りもベッドに寝かされたまま運ばれていく。こうして改めて見ると、正真正銘の重病人ね。
    こんな姿にしてしまうなんて、わたしはなんて罪深いのでしょう。どうかお許しください、キングさま。

     病室に戻る途中、ナースステーションの看護師さんたちが、

「お帰りなさい」

    と、一斉に声をかけてきた。なんともアットホームな感じがいいわね。すっかり顔なじみになった看護師さんたちに、彼は、

「はい、また戻ってきました」

    と、いかにもうれしそうに応えた。集中治療室では今にも死にそうな顔をしていたのに、現金なものね。

    病室に戻ると、さっそく、新米看護師のラッキーちゃんが、検査器具を載せたワゴンを押してやってきた。彼女はいつもの何倍もの笑顔で、

「無事に終わってよかったです」

 と言って、少し涙ぐんだ。なんだか、わたしまで泣けてきちゃったわ。ラッキーちゃんは彼にとって、間違いなく幸運の女神ね。まるで本物の天使と出会ったような顔をして彼女を見つめているの。
    まあ、憎らしい。 

  病室に戻って一息つくと、彼のお腹がグーグー鳴り始めた。昨日から何も食べていないんだもの、当たり前よね。
    わたしももうフラフラよ。わたしの体はバラバラにされてしまったけれど、それでもお腹は空くのね。早くご飯こないかな。でも、昼食の時間はとっくに過ぎているから、ひょっとして夕食まで何も食べられないのかしら? まさか、兵糧攻め? そんな!

    空腹と絶望のダブルパンチでわたしの気が遠くなりかけたとき、ラッキーちゃんがニコニコしながら食事を運んできた。
    神様、仏様、ラッキーさま!      
    昼食にはパンが出た。たしか、パンは入院してから初めて。見るからにおいしそうなねじりパンが2つもついている。これでわたしもようやくブドウ糖にありつけるわ。

「手術のあとの初めてのお食事なので、ゆっくり食べてくださいね。様子を見て大丈夫そうなら、栄養補給用の点滴は外せますから」

    と、ラッキーちゃんはまるでこどもに話して聞かせるように、優しく注意した。
    そのためには半分以上食べないといけないらしいけれど、まったく心配いらないわ。彼もわたしも腹ペコだから、3人前でも完食できそうよ。

「うまい! 人間、食べられなくなったらお仕舞いだ。このトマトのラザニア風料理もいけるな。ここの病院食はちょっとしたレストラン並みだ」

    と、彼は独り言を言いながら、あっというまに半分平らげた。
    ところが、急に両手が熱くなって、体中が痒くなったみたい。それでも気にせず食べていると、とうとう腕に発疹が出てきたの。もう少しで完食だけれど、さすがに彼もこれまで経験したことのない異常な症状に驚いて、しかたなくナースコールのボタンを押したわ。
    30秒と経たないうちに、ラッキーちゃんが飛んできた。心配そうに彼の腕や胸をチェックしながら、これまで食物アレルギーがなかったかと聞いたけれど、彼が花粉症以外はないと答えると、

「原因はわかりませんが、ドクターに伝えて、お薬を出してもらいますね」

    と言って、急いで出て行った。お盆の上の食べ残しのパンを見ながら、彼は溜息をついた。
    お昼はゆっくり食べるようにと注意されたのに、がっついて食べるからいけないのよ。きっと、胃がびっくりして拒否反応を起こしたんだわ。
    そのあと、ラッキーちゃんが持ってきてくれた薬が効いたのか、夕食は無事にすんで、わたしも一安心。
    これってもしかして、ドクター・ジャックが言っていた手術の合併症の一つかしら? そうだとしたら、この先も油断できないわね。どうかこれ以上、他に症状が出ませんように!

    なにはともあれ、ひとまず手術は成功したと思いたいわね。わたしもこれ以上大きくならないようにおとなしくしていますから、どうかこれからも、いっしょにいさせてくださいね。キングさま!


(つづく)

次回はこちら。
第2話 「傷痕」





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