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CANCER QUEEN ステージⅡ 第3話 「退院」 


【これまでのあらすじ】

《ステージⅠ》
    キングは健康診断で肺に影が見つかり、再検査の結果、主治医のドクター・エッグから肺がんと告知された。クイーンはがん細胞でありながら、キングの肺の中で彼の体を気遣うのだった。
    キングは死の恐怖と闘いながらも、これからの人生に目標を立てることで、生きる覚悟を決めた。精密検査の結果キングは肺腺がんと診断され、手術を受けることになった。彼は気がかりだったことをすませて、手術に臨んだ。
    一方、クイーンは後ろ髪を引かれながらも、キングとの別れを決意するのだった。

《ステージⅡ》
    手術から目覚めたクイーンは、自分がまだ生きていることに困惑する。キングは翌日からリハビリを始めた。

前回はこちら。
第2話「傷痕」


 今頃の人間の世界は師走とかいって、すごくあわただしそう。がんの世界には季節がないから、わたしたちはいつも勝手気ままに暮らしている。がんの種類によって成長するスピードがまちまちだから、何年ものんびりしている子もいれば、やたらとあわただしい奴もいる。

 わたしは、今はのんびりよ。ずっとこのままでいたいけれど、自分でもこの先どうなるかはよくわからない。でもまた大きくなりすぎて、キングに迷惑をかけることだけは、死んでも避けたいわね。といっても、がんは正常細胞と違ってアポトーシスができないから、自ら死ぬこともできず、永遠に分裂し続けるの。

 不老不死という大昔から人間が憧れてきた永遠の命が、がん細胞になって実現するなんて、なんという皮肉かしら。がん細胞は永遠に生きられても、それを宿す人間のほうは、がんが成長すればするほど命を縮めることになる。だから、わたしは絶対に大きくなってはいけないの。それが自然の摂理に反しようと、神の意思に逆らうことになろうとかまわない。キングが生きてさえいてくれたら、わたしは死んでもいいの。なのに、どうしてがん細胞はアポトーシスができないのかしら。自ら死を選べないなんて残酷だわ。そんな理不尽なことがあってたまるもんですか。そうだ、わたしがまた突然変異して、アポトーシスできる細胞に生まれ変わればいいんだ。そうだ、そうよ、そうすればいいのよ。でも、どうやって?

    キングが入院してから8日が経った。そろそろ退院だけれど、彼は退院した後も年末年始まで続けて会社を休むつもりだから、なんと20日間の長期休暇を取ることになる。いくら暇な会社でも、そんなに休んでばかりいて大丈夫なのかしら。一応彼は管理職だから、すぐには首にならないと思うけれど、ちょっと心配。

    この国では病気で療養休暇を取ったり、育児や介護で長期休暇を取ったりすると、職場で肩身の狭い思いをするらしい。もっと気軽に休みが取れるようになればいいのに。 
    それに比べて、フランスという国ではバカンスという制度があって、半月以上も続けて休むのが当たり前らしい。さっき、ラジオのニュースで聴いた。
    それに、日本の長時間労働は世界でも有名らしい。先進国では仕事も生活も両立させるワークライフバランスが当たり前らしいから、日本はまだ先進国じゃないのよね。
    わたしも今度生まれ変わるなら、もっとのんびりできるフランス人の体の中がいいな。

    今夜はクリスマスイブ。夕食にケーキが付いた。やった!

「メリークリスマス 早く元気になりますように♪ 栄養部一同」

    トレーの上には、こんなカードが添えてあった。ここの病院のスタッフさんたちは、ほんとうに患者思いね。
     彼はこんなクリスマスならもう少し入院していてもいいかな、なんて思っているの。でも、わたしはもういいわ。ケーキも食べたし、病院食にも飽きてきたから、いい加減早く退院させてほしいわね。

    と思っていたら、昨日のレントゲン検査の結果を見て、ドクター・ジャックが、

「今日の午前中には退院できますよ」

    といきなり言うの。キングは大あわてで荷物を片付け始めた。といっても、たいした荷物があるわけじゃないから、10分もしないうちに終わった。

    彼は支度がすむと、同室の患者さんたちに丁寧に挨拶した。たった10日間なのに、同じ肺がんを患った病人同士として、彼はまるで人生の重要な一コマを共有したような気分でいるの。

「お先に失礼します。みなさんにはほんとうにお世話になりました」

大王だいおうさん、退院おめでとうございます。絶対に戻ってきてはだめですよ」

 と、安藤さんがいつもの穏やかな笑顔で応えた。

「私もすぐに追いかけますから」

 と、石田さんが急いでカーテンを開けた。
    窓際の新田さんは起きているのか寝ているのか、カーテンを閉めきったままなんの返事もなかった。

 この3人は年末年始もこのまま入院生活が続くらしい。彼らとはもう二度と会うことはないだろうと思うと、キングは退院の喜びと一抹の寂しさが、一人だけ退院することの後ろめたさと交錯して、それ以上なにも言えなくなった。

 退院が急に決まったので、もう一人、彼がどうしてもお別れを言いたかった幸運の女神のラッキーちゃんとは、残念ながら会うことができなかった。
    キングの幸運もこれで尽きてしまうのかしら。ラッキーちゃんの笑顔をわたしももう一度拝みたかったな。

    キングは退院するとその足で、お母さまの病院に向かった。余命が幾ばくもないお母さまに余計な心配をかけたくないと、彼は仕事で長期出張するとうそをついていた。

    久しぶりに見るお母さまの顔は、少しやつれたようだった。反対に、お母さまも彼を見て同じことを思ったようだ。やっぱり親子ね。お母さまは、まじまじと息子の顔を見てから、

「少し痩せたんじゃないの。疲れているみたいだね」

 と言ったの。

「出張はどうだった。北海道は、雪は降ったの」

 彼は東北に行くと言ってあったのに、お母さまの頭の中では北海道に変わっていた。

「うん。雪だったよ」

 彼は適当に話を合わせてから、奥さまがお土産用にと横浜のデパートで買っておいてくれた岩手のお煎餅を袋から出した。

「でも、北海道じゃなくて、東北だよ」

「あれ、北海道じゃなかったの」

 そう言って、お母さまはお煎餅の袋を確かめてから、

「それ、看護婦さんにあげて」

 と言った。

「大丈夫。看護婦さんには別な煎餅を持っていったから」

 と彼が言うと、お母さまは安心したように、袋に手を伸ばした。

    お母さまはなにかある度に、看護師さんやお医者さんに付け届けをしないといけないと思っているの。彼がいくらその必要はないと言っても納得しないの。いつだったかは、お母さまが食べたいと言うので、彼が近くのスーパーで買ってきたお菓子を、袋ごと看護師さんにあげちゃったの。ナースステーションには、その袋が手付かずのまま積んであった。

    お母さまは彼の帰りを待ちかねていたようね。お医者さんからはいつでも退院していいと言われているようで、今度の年末年始には自宅に戻りたいと、しきりに彼にせがむの。
    よく見ると酸素の管は鼻に入れたままだけれど、いつのまにか尿道カテーテルは外されてオムツに替わっていた。痛み止めが効いているせいか、本人はいつでも退院できると思っているの。

    彼は相談員を兼ねている看護師さんから、近々、その件でまた相談したいと言われた。彼が入院する前に、その話は年が明けてからにしてほしいと頼んでいたのだけれど、看護師さんは納得していなかったのね。

    早く退院したいというお母さまの気持ちは、彼も痛いほどわかるの。彼自身もあのまま病院で年末年始を過ごさなければならなかったとしたら、かなり落ち込んでいたでしょうね。

    お母さまの願いは叶えてあげたい。でも、彼は退院したばかりで、まだ傷口に痛みを抱えている状態では、お母さまのお世話は難しい。奥さまは実家のお父さまにかかりっきりだし、東京にいるお嬢さまもあてにはできない。食事のお世話やおむつの交換、夜間になにかあった時の対応など、あれこれ考えると、1日や2日ならともかく、何日も続けては不可能だ。

    彼はさんざん悩んだあげく、お母さまには申し訳ないけれど、我慢してもらうしかないと決めた。そのかわり、病院には毎日顔を出すことにした。

    何日か一時外出に連れ出せれば、母も納得してくれるだろう。そのときはまた、母の大好きなお寿司を取って、麻雀も楽しんでもらおう……。
    今の彼にできることは、それが精一杯だった。

    翌日、彼がその話を持ち出すと、お母さまはがっかりした様子で、しばらく黙ったまま窓の外を眺めていた。それでも、お正月の2日と5日には一時外出ができそうだと聞いて、気を取り直したみたい。いつもの優しい笑顔に戻ったわ。やっぱりお母さまはマリアさまのようね。

    わたしのせいでお母さまにまで悲しい思いをさせてしまうなんて、なんて親不孝な娘でしょう。
「なんだ、おまえは娘じゃないだろう」
    と言われてしまいそうだけれど、キングの体の中で、彼と命を分け合っているわたしは、自分では彼と一心同体のつもりなの。だから、彼のお母さまはわたしのお母さまでもあるのよ。

    今日は、人間さまの世界では、大晦日と言うらしい。キングは今年最後のお見舞いに行った。彼はスマホでアメリカにいるお姉さまを呼び出して、お母さまに声を聞かせてあげると、お母さまは目を潤ませながら、1時間近くも話をしていた。

    夕方、彼は近くのスーパーで買ってきた年越しそばを、お母さまは病院で出されたおそばを病室でいっしょに食べた。いつもはほとんど残してしまうお母さまも、今夜は全部平らげていたわ。

    今夜はキングが初めて経験する一人ぼっちの年越しね。奥さまは今日も実家で、お父さまの介護に忙しそう。お嬢さまからは頭痛がひどいから来られないと、さっきメールが届いた。

    彼は自宅のマンションに戻ると、一人静かに目を閉じたまま、じっとなにか考え事をしているの。きっと、この1年を振り返っているんだわ。この秋、たまたま健康診断で肺に影が見つかってから手術を受けるまでの、なんとあわただしかったことか。それまでの悠々自適の生活が一転して、いきなり死のふちに立たされるという恐怖は、もう二度を味わいたくないと思っているの。

    でも、そこから立ち直るのも早かった。キングは新しく生きる目標を立てて、これからの人生を余生ではなく、1日1日を大切にしながら、これまでの人生に加える「加生かせい」という彼なりの人生観を編み出したの。それはまるで、運命という言葉を自分に引き寄せて、運命そのものを変えてしまおうとでもしているようだわ。

    わたしはそんなきっかけを作った、言わば功労者よね。彼には感謝してとまでは言わないけれど、これからもいっしょにいることだけは認めてくださいね。

    キングは目を開けると、思い出したようにベートーベンの第九を聴き始めた。毎年恒例のこの曲を、今年も聴けることに感謝しているの。普段と同じことを普段どおりにできることがどんなに幸せなことか。彼はこうして生きていることが当たり前ではなく、奇跡なんだという思いを、この『喜びの歌』に重ねて聴いているの。
    ラストの大合唱が高揚の絶頂に達したあと、彼は興奮を鎮めるように、ふーっと息を吐いた。

    聴き終ると、夕方、奥さまが届けてくれたおせち料理を突っつき始めた。糖質ゼロ、プリン体ゼロの発泡酒を開けて、一人で乾杯しているの。入院中はお酒を飲めなかったから、アルコールはほんとうに久しぶりね。糖分が大好きなわたしには、糖質ゼロというのはちょっと悔しいけれど、彼の満足そうな顔を見ていると、わたしまで幸せな気分になるわ。

    一人ぼっちの年越しは寂しいでしょうけれど、わたしがお相手しますから、がまんしてね。でも、キングは案外楽しそう。昨日まで病院で手術の痛みに耐えていたことを思えば、たとえ一人でも、こうして穏やかに年を越せることがどんなにありがたいことか、彼は身に沁みて感じているのね。

   さっきから、もう、除夜の鐘が聞こえている。今年はたいへんご迷惑をおかけしましたが、来年はおとなしくしていますから、どうぞよろしくお願いいたします、キングさま。


(つづく)

次回はこちら。
第4話「選択」





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