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#天職だと感じた瞬間

    私は現役時代、どんな仕事に就いても、常に二本のヤリで仕事をしようと心がけていました。それは、「思いやり」と「やり甲斐」のヤリです。この二本のヤリは、密接に関係しています。

    私にとってやり甲斐のある仕事とは、お金を儲けることでも、自分の能力を発揮することでも、ライバルと競争することでもなく、人に思いやりを持って接することができる仕事であり、人に思いやりを持てば持つほど、仕事にもますますやり甲斐が生まれくるというものでした。

「思いやりとやり甲斐の、二本のヤリで仕事をする」

    これが、私の現役時代の仕事のモットーでした。

 私は自治体職員として、何か人の役に立つ仕事がしたいと思っていました。
    自治体の仕事は、実に千差万別です。私も、困っている人からの相談に応じたり、環境や人権など地域の課題を解決するために、多くの人と話し合いの場を設けたり、各種のイベントを開催したり、地域の将来像を描いたりなどと、様々な仕事に携わり、それなりに充実した仕事ができたと思っています。

 一方で、議会やマスコミへの対応、施設管理や組織運営など、内部管理的な仕事も多く、そこでは細かな規則や前例に従った仕事の仕方が求められます。そうした仕事でも、私はこれまでにない新しいしくみを導入できないかと試みることで、自分なりのやり甲斐を見つけようと努力していました。

    それでも、年を経るにつれて、自分でも仕事のやり方がマンネリ化していると感じるようになり、いつしか、

「これではだめだ、初心に帰って、もっと人の役に立つような仕事をしなければ」

    という思いが、膨らんでいたのでした。

     東日本大震災が起こったのは、ちょうどその頃でした。何かしなければ、という思いに駆られていたとき、私は、被災者を支援するために新しく組織されたチームのリーダーを任されたのでした。

 それは、もちろん、前例や規則などなく、これまでのどの部署も経験したことのない、全く新しい仕事でした。それどころか、組織は作ったものの、何をどうするかは一切決まっておらず、刻々と変化していく被災地の深刻な状況の中で、被災者のために、今やるべきことは何かを、自分たちで考え、手探りでも、とにかく実行していくという、通常ではありえない仕事の仕方だったのです。

 やるべきことは山ほどありました。なかでも、被災地に支援物資を届けることが緊急のミッションとなりました。

「私も支援物資を送りたいが、どうしたらいいか」

    という問合せの電話が、チームに殺到していたのです。それに対応するために、すぐさま、3交替による24時間体制を取りました。

    ところが、被災地では大量の支援物資の受け入れに、大きな混乱が生じていました。現地の状況を説明し、せっかくの善意の申し出も断らざるを得ない事態に、私は胸が締め付けられるような思いをしたものです。

    こうした善意になんとかして応えたいと、各地の行政機関で支援物資を受け入れる体制を整え、自衛隊に協力を要請して、ようやく被災地に送り届けることができたのは、現地が受け入れ停止を表明する前日のことでした。

    次のミッションは、新たな一時避難所を設置することでした。候補地が決まると、まず、地域の自治会や商店街、ボランティア団体など、関係団体に協力を求め、臨時の施設整備を大車輪で進め、受け入れる被災者の情報を集め、支援物資を運び込む。この一連の作業を、1か月の間にこなしていきました。チームのメンバーたちの七転八倒の奮闘に、頭が下がる思いがしたものです。

 なんとか開設にこぎつけ、地元のボランティア団体のメンバーが歓迎パーティを開いてくれた日のことです。
    被災者の一人が、

「こんなにうまいビールを飲んだのは、生まれて初めてだ」

    と、目に涙を浮かべたのです。それまで、狭い避難所で、周囲が気になって、好きなアルコールを一滴も口にできなかったというのです。
    私はその言葉を聞いて、公務員になってよかったと、心から思いました。被災者のために、という思いが報われた瞬間でした。

 地震発生から2か月が経ったころ、私は、一刻も早く、避難者を見守るためのしくみを作らなくては、という思いに駆られていました。
    というのも、先の阪神淡路大震災では、せっかく難を逃れた被災者が、一時避難所から個別の災害住宅に移ってまもなく孤独死するという悲劇が、頻繁に起こっていたと聞いていたからでした。

 被災者の避難先を個別に訪問し、様々な相談に乗り、避難者を見守ることで、孤独死をなくしたい。そのための新たなチームを作りたい。私はそう考えて、早速、行動を起こしました。

    まずは、予算と人員の確保です。行政は、年度途中で新規事業を立ち上げることは、まずありません。しかし、この時は例外でした。予算は国の補助金を使い、人員は新たに臨時職員を公募するという案が通り、事業をスタートさせることができたのです。

    私は、公募に応じてこられた様々な経歴の人たちと面接しながら、被災者を支援したいという思いはみな同じなのだと、胸が熱くなりました。

    見守りチームの発足の日、私の被災者支援の役目は終わりました。

 「思いやりとやり甲斐の、二本のヤリで仕事をする」

 このモットーは、退職した今も変わりはありません。
    仕事に限らず、人生を楽しむためにも、この二本のヤリは大切だと思っています。
    ただし、今も、三本目のヤリだけは使わないようにしようと心に誓っています。それは、「投げやり」のヤリです。

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