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CANCER QUEEN ステージⅠ 第10話 「手術」


 

 手術は明日だけれど、土日は診察も検査もないので、キングは静かな病室でのんびりと過ごしている。窓の外を眺めたり、読書をしたり、音楽を聴いたりと、いつもよりリラックスしている。唯一、バイオリンを弾けないことだけが心残りみたい。下手でも弾いていると、いやなことを忘れるから。
    はたから見ると、この人が生死を分ける手術を目前に控えたがん患者だとは、だれも思わないでしょうね。

    わたしもキングの肺のなかで、穏やかに最後の時を過ごしているわ。ドクター・ジャックの説明のときには、みっともなく取り乱してしまったけれど、今は自分でも不思議なほど落ち着いている。彼のように、まだ完全に覚悟を決めた訳ではないけれど、こうしていっしょにいられるだけで幸せなの。
    明日はジタバタしないで、おとなしくお別れを言うつもり。これ以上、大好きな彼を苦しめたくないから。

    わたしも食いしん坊だけれど、キングはわたし以上だわ。病院食は思ったよりおいしいと、毎回喜んで食べているの。1,900キロカロリーと量は少なめだけれど、たしかに味はいいわね。
    おとといの夕食は牛ロース肉のじぶ煮。昨日のお昼はミートソースのスパゲティー。夜はカレーライス。彼は全部、完食していた。

    毎回、食べ終わると、献立用紙の余白に感想を書いているの。「おいしかった」とか、「ありがとう」とか、ほんの一言だけれど、栄養科のスタッフさんにはきっと励ましになるわね。昨日は、コメントにつけたニコニコマークを見て、看護師さんたちが「かわいい!」と歓声をあげていたわ。

 今夜は夕食間際に、奥さまとお嬢さまが連れ立って、ケーキを持ってお見舞いに来た。
    うれしい! わたしの大好物よ。

「最後の晩餐になるかもね」

    と、奥さまは悪い冗談を言うの。

「やっぱり気にする?」

 と笑いながら聞く奥さまに、彼は、

「全然」

 と、ほほ笑み返すの。

    お嬢さまは手術の成功を信じて疑わないようだわ。いつものように、白い歯をニッと見せて笑っている。

    夕食に、いなり寿司とのり巻きが運ばれてくると、

「ちらし寿司の方がいいのにね」

 と言いながら、奥さまがのり巻きを一つ摘むと、お嬢さまもパクッと一つ。そこでまた大笑い。なんて賑やかなお見舞いかしら。

「退院したら、快気祝いに、みんなでホテルのレストランに行こう」

 と彼が言うと、2人とも大きくうなずいていた。

    2人が帰ると、病室が急にシーンとなって、わたしまで寂しくなってしまう。
    キングはお嬢さまからプレゼントされた気功の本を開いて、ベッドの上で瞑想を始めたわ。単なる気休めかもしれないけれど、そうしていると気分が落ち着くみたい。

    まさか、今夜が最後の夜になるかもしれないなんて考えていないわよね。奥さまは彼の前ではいつも笑顔を絶やさないけれど、内心は不安で仕方がないはずよ。でも、お嬢さまがいてくれるから、大丈夫だろうとは思うけれど。

    そのお嬢さまは、どういうわけか、手術のことはまったく心配していないみたい。彼がもしかしたら死んでしまうかもしれないなんて、これっぽっちも考えてはいないようだわ。いったいどこから、そんな確信が湧いてくるのかしら。不思議ね。

    キングにもしものことがあったら、奥さまは実家のお父さまと彼のお母さまの2人のお世話を独りでするようになるのね。お父さまの認知症がこれ以上進まなければいいんだけれど。
    お母さまは息子が自分より先に、自分と同じ肺がんで亡くなったと知ったら、どんなに悲しむことでしょう。
    そんな思いを絶対にさせてはいけないの。やっぱり、わたしはここで覚悟を決めないと。

    人間とがんは、同じ遺伝子を共有する一つの命よ。親子でもあり、兄弟とも言えるから、ほんとうはもっと仲良くしたかったけれど、やっぱり人間にとっては迷惑な存在でしかない。ましてや、恋人になんかなれないわ。悲しいけれど、わたしの片思い。
    人間にとっては、がんは憎しみの対象でしかない。でも、「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざにもあるように、愛と憎しみは同じ感情の表と裏。わたしがキングを愛すれば愛するほど、キングはわたしを深く憎むようになる。なんて悲しい運命かしら。

   人間は4000年も前からがんに悩まされながら、がんと闘ってきた。不治の病だったがんも、今では治るようになったとはいえ、まだまだ恐ろしい病気には違いないわ。
    でも、手術ですっかり切り取ることさえできれば心配ないの。だから、わたしはもう、あなたといっしょにいるのは、きっぱりと諦めるつもりよ。

    キングは手術に備えて、今夜は12時から絶食。水は朝の6時半までなら飲める。手術中に脱水状態にならないために、500ミリリットルは飲んでおいたほうがいいと、看護師さんが目盛付きのプラスチックのコップを置いていった。なんだか検尿のコップみたい。
    キングは寝る前に水を1杯だけ飲んでベッドに入ると、すぐにいびきをかき始めた。いつもは夜中に何回もトイレに起きるのに、今夜はどうしたのかしら。まるでこれが寝納めでもあるかのように、ぐっすりと眠っているの。どんな夢を見ているのかな。いい夢だといいね。
    彼の寝顔を見ているうちに、わたしも眠くなってきた。おやすみなさい。

    いつのまにか、朝が明けた。とうとう手術の日が来てしまった。キングは6時に部屋の灯りがつくと、ベッドから起き上がって、コップ1杯の水を飲んだ。それってまさか、末期の水のつもりじゃないわよね。

    それからベッドの端に座って、いつものように気功を始めた。きっと、「病は気から」を今日こそ実践する日だと思っているんだわ。静かに目を瞑って、しばらくじっと座っていた。

    病室は静まり返っているのに、廊下からはせかせかとした足音がひっきりなしに聞こえてくる。朝のルーチンワークが始まった。そろそろこの病室にも、看護師さんが血圧計や体温計を乗せたワゴンをゴロゴロと押してくる頃ね。
    今朝の担当は誰かしら。あの幸運の女神のラッキーちゃんだといいな。今日のキングには、なによりも幸運が必要だから。
   でも違った。残念! わたしももう一度、彼女に会いたかったな。

    手術は9時からの予定。その時間に合わせて、彼が手術用に家から持ってきた浴衣に着替えて待っていると、青いユニホームの看護師さんが迎えにきた。いつもの白じゃないから、わたしは一瞬、女性のお医者さんが来たのかと思って緊張しちゃった。
    でも、執刀医はあのドクター・ジャックだから、ほかの医師が来るはずはないのよね。女性のお医者さんなら優しくしてくれるかも、なんて期待してしまったけれど、ばっさりと切り取られてしまうのは同じ。わたしって、ばかね。

    今回は検査入院のときと違って、キングは病室からベッドに寝かされたまま手術室に移動した。さすがに緊張してきたみたいで、病室を出た時の笑顔がだんだん消えていくの。

    わたしも体がコチコチになっていくの。細胞の一つひとつがギュッと詰まってきて、これから始まる戦闘に備えるかのように、全身が固まっていく。

    手術室に入るとすぐに、麻酔科の先生が全身麻酔の処置を始めた。キングはあっというまに、深い眠りに落ちていった。

    今度あなたが目を覚ますときには、わたしはもういないのよ。短い間だったけれど、あなたの肺のなかにいられて、わたしは幸せでした。あなたを困らせるつもりはなかったけれど、わたしの存在は迷惑でしたね。奥さまやお嬢さまにもご心配をおかけしました。どうか、お許しください。
    またお会いできることはないと思いますが、万が一、ドクター・ジャックの手元が狂って、わたしを切り損ねるようなことがあったら、そのときはごめんなさい。今度はもっとおとなしくしていますね。食いしん坊もがまんして、あまり大きくなり過ぎないようにします。そうすれば、あなたの体のなかにいつまでもいられるわ。けっして、お邪魔にならないようにします。

    でも、今はやっぱり、お別れを言わないといけないわね。

   さようなら、キング!

 (つづく)

前回はこちら。
第9話「ドクター・ジャック」

次回はこちら。
ステージⅡ 第1話 「復活」





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