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CANCER QUEEN ステージⅠ 第9話 「ドクター・ジャック」


 

    12月16日、予定通り入院。10日間の入院ともなると、いつも通勤で背負っているリュックサックだけでは足りずに、キングはもう一つ大きめの旅行バッグも提げていくことにした。

 病室は今度もまた窓側だった。窓からはラッキーなことに、ランドマークタワーや観覧車まで、横浜の街が一望できる。
    これで個室だったら、高級ホテルのVIPルーム並み。4人部屋なのが残念。でも贅沢は言えないわね。

 キングが荷物を片付けていると、後ろから看護師さんに声をかけられた。

大王だいおうさん、担当の倉田です。よろしくお願いします」

    振り向くと、懐かしい笑顔がそこにあった。

「やあ、あっちゃん。また会えてうれしいな」

 そう、前回入院したときの、あの『幸運の女神』のラッキーちゃんなの。

「私もうれしいです。名前を憶えていてくれたんですね」

 今回もラッキーちゃんが担当だなんて、キングはほんとうにラッキーね。

 午後3時から、手術の説明があった。またあの怖い外科部長さんかと思ったら、病室に現れたのは、まるで有名なアニメの主人公のように、背が高くてハンサムな、若いドクターだった。これからはドクター・ジャックと呼ぼうっと。  

 ドクター・ジャックはキングと奥さまを別室に案内すると、術前説明書と書かれた分厚い資料を渡した。ドクター・ジャックの流れるような説明とは裏腹に、内容はとてもすらすらと聞き流せるような話ではなかった。 

 予定手術名:開胸左上葉切除+リンパ節郭清 

    切り取るのは、左肺の上半分と、近くのリンパ節。胸に穴を開けて胸腔鏡を入れるだけでなく、背中を15センチも開いて手術をするという。この前の外科部長の説明と違うじゃない。どういうこと?

    がんが4.2センチと大きかったので、胸腔鏡だけでは無理なんだって。先月、ドクター・エッグから聞いた3.8センチより、また大きくなっている。
    たった1ヵ月で、わたし、そんなに太ったかしら。きっと、彼が入院前においしいものをたくさん食べ歩いたからで、わたしのせいじゃないわ。

    外科部長は胸を開いても10センチ程度だと言っていたのに、それより5センチも広い。それに、肋骨は広げるだけで骨は切らないと言っていたのに、ドクター・ジャックは切りますとあっさり言った。外科部長の嘘つき!

    手術は19日の朝8時40分から。わたしは朝寝坊なのに、そんなに早く起こさないでよ。予定では3時間から4時間もかかるらしい。その間、わたしはずっと切り刻まれているのね!?
    キング、助けて! 

    手術当日は、集中治療室から出られないそうよ。翌日、問題がなければ一般病室に戻れるけれど、そのときは体にいろいろな器具がついたままらしい。術後の出血や空気の漏れを確認するため、胸にはドレーンという管を入れたままだし、ほかにも尿道カテーテルや酸素マスクや硬膜外麻酔カテーテルや心電図や酸素モニターやらと、まるで、管に繋がれた操り人形かロボットのようね。

    でもそのときには、わたしはもうこの世にはいないんだわ。ドクター・ジャックは腕がよさそうだし、隣のリンパ節まで切り取られては、隠れる場所もなさそうだもの。
   キング、助けて!! 

 退院日は当初の説明より1日延びて、27日になるらしい。最終的なステージを確定する病理診断の結果は2週間から4週間後だから、外来で結果を聞くのは、年明けの12日頃。それまで仕事は休んだほうがいいと言われた。
    彼は4日の仕事始めから出るつもりでいたようだけれど、諦めるしかないわね。

 キングと奥さまはこれまでの説明で十分不安そうな顔になっていたけれど、ドクター・ジャックが、

「これからが怖い話です」

    と言って座り直したから、2人ともドキッとして顔を見合わせた。

    え、もっと怖い話? なにそれ! 
    わたしはさっきからもう真っ青。生きた心地がしないとはこのことね。

     それは合併症の話だった。ドクター・ジャックは、出血や肺炎のリスクのほかに、膿胸や気管支ろう、嗄声、せん妄、肺塞栓とか、いろいろおどろおどろしい名前を次々に挙げるの。
    彼もたまらなくなって、途中で、

「もういいですよ」

    と言った。合併症のリスクはそんなに高くはないけれど、ゼロでもない。患者は医師の腕と幸運に期待するしかないのよね。

 ドクター・ジャックは一通り説明が終わると、何か質問があれば遠慮なくどうぞと言った。

    キングが術後の運動について尋ねると、手術の翌日から、多少痛くてもどんどん歩いてくださいと言われた。痛み止めをもらってでも、積極的に歩いたほうが、合併症を予防できるというの。それともう一つ、痛くても痰を出すことが大事なんですって。
    いったいどんな痛みが待っているのかしら。相当の覚悟が必要なようね。

    でも、わたしの痛みに比べたら、たいしたことはないわ。だって、わたしは手術で死んでしまうかもしれないのよ。痛いとかなんとか言っている場合じゃない。

 奥さまはなにを思ったのか、突然、手術の様子を見学できないかと聞いたの。
ドクター・ジャックは、

「この病院には、そのような設備はありません」

    と、そっけなく答えた。奥さまはいかにも残念そうな顔で、今度は、

「よくテレビドラマで、ドクターが手を洗ったあと、両手を上にしながら手術室に入るシーンがありますが、本当ですか?」

 と聞いたの。

「いえ、そんなことはありません。手術室のほうが菌が少ない状態なので、着替えもなかでします。ドラマのほうが格好いいですが、現実はそれほどドラマチックではありません」

 と、ドクター・ジャックはまじめな顔で答えた。ニヒルな表情がアニメの主人公にそっくりね。 

    奥さまってほんとうにおもしろい。奥さまの明るさに、キングはいつも救われているの。 

    いよいよ手術だわ。手術台の上のキングはまな板の鯉。その彼の肺のなかのわたしは鯉のなに?
    キングはとっくに覚悟を決めているようだけれど、わたしはただ、おろおろするばかり。
    キング、助けて!!!

 


(つづく)

前回はこちら。
第8話「手術の前に」

次回はこちら。
第10話「手術」



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