見出し画像

ラップ将軍について語ります

こんにちは、架空書店「鹿書房」店主、伍月鹿です

「グッド・オーメンズ」シーズン2まで観終わりました
実は観る前に結末を知ってしまい、半信半疑のまま観ていたのですが、想像以上に悲しくて辛くてやりきれない思いでいっぱいです……
どっちも同じ気持ちなのに、肝心なときに決定的にすれ違ってしまうのは、世界中で愛のテーマの一つなのでしょうね

さて、本日11月8日は「推し」のラップ将軍の命日です

彼については日本語で紹介されている文書が少なく、わたし自身もまだまだ勉強中の身です
しかし、数年彼の情報を探している上で、まあまあ資料は揃ってきた感覚はあるので、現段階で紹介できるものをこの機会に語らせていただきたいと思います

各参考文献、webサイトはオリジナル小説「それは不可能です、ナポレオン」にて一覧にしているものと同様のため、そちらを参照ください


そもそもわたしが何故、ナポレオン軍という途方もなく、ある意味どん詰まりの研究テーマの中で、名が知られているんだか知られていないんだかわからない「ナポレオンの副官」を推しているかといいますと

ナポレオンに興味を持ったのと同じ理由です

「千銃士」の中に登場するラップは「ナポレオンがラップ将軍に贈った銃」の化身で、勇敢な戦い方をしたラップ将軍に憧れ、猟銃でしかも分類としては美術品に近い存在ながらも、傷を厭わず戦いたがるキャラクターです

その銃は現在もフランスの自然狩猟博物館に飾られているとか(いないとか)

その美しい造形と、目を引く「ナポレオンが贈った銃」というフレーズで興味を持ち、ラップ将軍って誰なのだろうという興味からはじめは始まりました

調べても、さっぱりわかりませんでした笑

でも、根気強く調べていくと、実は膨大な記録が残されていて、いまでも故郷やフランスでは彼が由来の地名や建物、美術品が多く残されているとわかっていきました
彼を知る為にはナポレオンについて、フランスについて多く知る必要があり、そうしているうちに全貌が見えてきて魅力に益々はまり、いまやすっかりナポレオンオタクを名乗れるようにまでなりました

その一筋縄でいかないところも、わたしの探求心に火とつけたのでしょう

前置きはともかく、彼の簡単な略歴や功績を語らせていただきます
(翻訳のニュアンスの違いや、所説あることばかりなのことをご了承ください)※追記、年代間違い修正しました。ご指摘ありがとうございます


生誕

1771年4月27日火曜日、フランス北東部アルザス地域圏、オ=ラン県コルマールでラップ将軍は生まれました
アルザスにはアルザス語という地域特有の言葉や、フランス語、ドイツ語が使われ、住民は自然にどちらの言葉も習得するようです
彼が生まれたのは、現在もコルマールに残るKoifhusという旧税関の建物です。お父様がそこの管理人をされていて、軍では「用務員の息子」というあだ名をつけられていたとか

ちなみに1771年だとナポレオンの2個下ですね
ネイとランヌがナポレオンと同い歳で、ミュラがナポレオンの2個上、ジュノーがラップと同い歳……と並べていくと、当時の青年たちにとっていかにチャンスに恵まれていた時代だったか感じることができます

両親はラップに牧師の道を歩ませたかったようですが、丈夫で背が高かった彼は17歳で騎兵連隊に入隊し、その後、軍人としてめきめきと頭角を現します
彼は勇敢な武功と怪我を繰り返して昇進を重ね、同じく軍人だった叔父の紹介でドゼーの副官に任命されました


ドゼーとの出会い

彼との出会いや、彼の「注意を引くことができた」ことはラップにとって「私の幸運の源」となったそうです

ドゼーはライン=エ=モーゼル軍で指揮をしていました
1796年、ケールの砦を守ったことが勝利につながり、翌年にラップを正式な副官に任命、昇進させています

1797年にドゼーは負傷したことから、3か月ストラスブールで療養したあと、副官と使用人を伴いイタリアへ旅に出ています
それがドゼーとラップにとってイタリア方面軍で同じく名声を得始めていたナポレオンとの出会いになりました

1798年、ドゼーの配下でエジプト遠征に参加したラップは、多くの戦いで彼と共に戦火をかけました
セディマンでトルコ軍の襲撃にあった際にドゼーが「Vancre ou mourir
」と部下に問いかけたところ、ラップが「Vancre!」と叫び返したというエピソードが有名
ドゼーはナポレオンに逃亡したムラド・ベイの追撃を任され、上エジプトを指揮下に収めました

1800年にフランスに戻ったドゼーは、すぐにイタリア軍に合流、マレンゴの戦いに参加しました。そこでドゼーは惜しくも戦死
その死をナポレオンに伝えた同じくドゼーの副官だったサヴァリと共に、ラップはナポレオンの副官に任命されます


ナポレオンとの関係

ラップは「生来の良識と洞察力を備えている」とナポレオンに称され(ラップはお世辞と感じていたようです)、残っている資料でも「真面目で誠実」であると評価されていることが多いですね
また、自由奔放で素直な物言いをする人物だったようで、ナポレオンに対しても自分の意見を告げることを厭わなかったようです
ナポレオンはそんなラップが気に入り、親しみを込めた「tu」という呼びかけを使ったそうです

先の話にはなりますが、ラップ自身ナポレオンには取り繕っても無駄だと感じていたようで、百日天下で面会をした際も何も包み隠さず、あるがままの姿で彼と対峙するよう心掛けたそうです

ナポレオンの副官になってからの彼は「皇帝の副官」になったのにも関わらず、そんな自然な心のまま行動し、時にナポレオンの不評を買うこともありました
手紙に悪口を書いたのが見つかって本気で引退しようとしたり(ナポレオンの妻や仲間に引き留められて謝りに戻った)、人助けをしたり、何か困ったことがあると皆がラップに相談していたような話が自伝にいくつか残っています

1805年アウステルリッツの戦いにおいて、マムルークを率いてロシア騎兵隊に突撃し、戦いを勝利に導いた話は以前の映画予告解説でも語らせていただいた有名な絵画に残っています

生涯、とにかく怪我が多かった彼は、軍から離れて療養をしている期間も多かったようです
そのたびにナポレオンが見舞いに来てくれて、冗談を交わし合ったなんて話も
当時、フランスの衛生状態や肌を濡らさない習慣、医療技術から想像するに、些細な切り傷であっても命を落とす危険はあったのだと思います。実際にナポレオンもラップも四肢切断を覚悟する瞬間があったようですが、優秀な軍医に恵まれて生涯五体満足で過ごすことができたようです

1807年、療養のためにソーン県やダンツィヒ県の知事を任されたラップは「あまり評価しない節度」を見せてナポレオンの寵愛を失ったともいわれています
1810年には当時ナポレオンが敷いていた「大陸閉鎖」を無視して密輸品の取引許可をしていたとか
しかし、上記の銃は1806年から1809年頃に制作されたものであるとされてまして、過去の活躍や領知事としての働きを労ったものではないと予想

ちなみに「副官」の地位がどういう扱いだったのかもはかりかねているところがあるのですが、ナポレオン本人がラップは「14年副官を勤めた」と称していることから、マレンゴ以降1814年までの期間ずっと彼の肩書きはナポレオンの副官だったそうです
寵愛を失う、とは

ナポレオンの暗殺を阻止したエピソードは1809年ですね


ロシア遠征

1812年、ラップは軍に復帰し、モスコヴァで4つの傷を負います
怪我をしていたことを知ったナポレオンはラップを気遣う言葉をかけ、敗退の道のりでは自分の馬車に乗るように誘います
コサック兵に襲われたナポレオンを助けるために自分の馬を犠牲にしたラップは、軍で発行されている新聞に功績を掲載されて褒めたたえられたそうです
またラップが怪我をしたのではないかと心配するナポレオンが自伝ではとても温かみのある様子で描かれていて、彼らの信頼関係をリアルに捉えることができます

皇帝は無事にパリへ戻りますが、再びダンツィヒを任されたラップはそこで1年にもわたり連合軍の攻撃に耐えます
パリ本部との連絡手段もなく、補給もない中で使命を全うした彼は、1814年にロシア軍へ降伏、拘留されます

7月に解放されたラップはパリへ向かい、ルイ18世に忠誠を誓います


晩年

ルイ18世の元で軍に復帰したラップは、1815年の百日天下でナポレオンを捕まえるよう指示されます
しかし、兵士は戦うのを拒否し、ラップはナポレオンと面会します
自分と戦うつもりだったラップをナポレオンは非難しますが、素直に認めた上で「仕方がないことだった」と吐露するラップ将軍、確かに誠実
ナポレオンはラップを2分間もの間熱い抱擁をし、再び自分の副官として戦場に立ってほしいと頼みました

ストラスブールのライン軍指揮を任されたラップは、押し寄せてくる連合軍との戦いを繰り返し、ナポレオンにとって最後の勝利を与えたとされています

再び王政となったフランスでラップは休職処分を受け、その間に再婚をしたり、子を設けたりしています
1819年にルイ18世に貴族院議員に任命され、翌年には「侍従長兼衣装係」に任命されていることから、国王からも寵愛を受けていたらしい様子
(わたしの従者の知識は英国のものですが、侍従長兼衣装係は主人と直接接する高級従者だと思うので、それなりにそれなりの地位ですよね……?)

1821年5月にナポレオンが死去、その訃報がパリに伝わったのは7月とのこと
それから半年も立たずして、11月8日にラップも胃癌で50歳の生涯に幕を閉じます


現代

いまでも彼の出身地コルマールでは、ラップ将軍の名を多く見ることができるようです
「ラップ広場」には銅像が立ち、近くには同じ名前のカフェもあるそうです
パリやストラスブールにも「ラップ通り」が存在し、地図を眺めていると推しの名前を見つけてびっくりすることもできます

また、アウステルリッツの戦いの絵画があまりにも有名で、いまでも様々なところでナポレオン戦争のモチーフとして使われていますね
真ん中にいるの、わたしの推しなんですよ……とそっと主張できるので嬉しいです

また、自伝が残っていることから、上記のように鮮明に資料が残る彼
副官という注目されにくいポジションですが、副官という立場から見たナポレオンを残した数少ない一人として、200年が経つ今でも彼やナポレオンの姿を生き生きとした姿で教えてくれます
最近、英語版の自伝が再出版されているようなんですよね
多くの人が作り上げた「ナポレオン伝説」の一角として、後世に語り継がれてきたこと、本当に感謝しております


映画「ナポレオン」の公開が迫ってまいりましたね
日本でどのくらいの話題を呼ぶ映画となるのかわかりませんが、現代の技術で蘇るナポレオン戦争を見届けるべく、わたしも資料を読みふける予習の毎日です
推しは出てきませんが、推しいたもん、と主張すること請け合いなので、そんな記事が出てきましたらまた、よろしくお願いいたします

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?