いにしえの哲学者は秘密を守ることがとても大切だと説いてきました(ディオゴ・ド・コウト)
近世初期のポルトガル人歴史家ディオゴ・ド・コウトが述べたことばです。
以下、タイトルの文言が含まれているディオゴ・ド・コウト著『老練なる兵士』第1部第一幕の一部を翻訳にて紹介します。
翻訳
古えの哲学者は秘密を守ることがとても大切だと説いてきました。
アテネ人は、秘密を暴いた者にたいして、最も厳しい刑罰を科しました。そのため、秘密は厳密に扱われていました。アテネ人は、マケドニアと争っていた時期に、偶然フィリッポが妻のオリンピアに宛てた書簡を手に入れましたが、それらを閉じたまま、触れることもなく、送り返しました。書簡には彼らが活用できるような情報がいくつ含まれていましが、アテネ人は勝利そのものよりも秘密を守ることを重視したのです。
シケリアのディオドロス[1]が書いているように、エジプト人の間でも秘密を暴くことは犯罪でした。かれはある祭司の事例を引いています。その祭司は、イシス神殿で別の祭司が処女といるのを知って、後者に信頼されていたにもかかわらず、すぐにその事実を暴露してしまいました。妾を囲う者はすべて死罪となっていましたが、秘密を暴いた者、つまり前者の祭司も永久追放となりました。
また、アテネのカピタンだったアナクシラスは、スパルタ人に囚われて、拷問にかけられました。〔スパルタの〕アゲシラオス二世[2]が決めたことを言わせようしたのです。しかし、アナクシラスは、自分はバラバラにされるが、国王の秘密を暴くことはないと答えています。
アテネ人は、秘密を守ることについてたいへんに厳粛でした。プルタルコスも著作『De Exilo』に記しています。あるエジプト人がアテネで外套の下に何かを携えて街道を通っていると、何を持っているのかとひとりのアテネ人に尋ねられました。すると、エジプト人は、「貴殿はアテネ人であろうに、そんなことを尋ねるのか。外套でそれを覆っているのに、このことがどういうことかわからないのか」、と答えました。
秘密を守ることをもっとも重要だと考えていたのは、デモステネス[3]でした。デモステネスは、友人になぜ息が臭いのかと尋ねられた時、「私の腹で無数の秘密が腐っているからだ」、と答えています。
哲学者であるピタゴラス[4]は、入門後二年は弟子に沈黙を守ることを教えました。秘密を守ることを習慣づけるためです。彼は、沈黙は最良であり、秘密を守るより崇高な哲学はないと述べています。
プラトンはディオニュソス治下のシュラクサイにあるディオニュソスの館に着いた時、接待に来たブリアスに何をしたのかと尋ねたと言われます。すると、ブリアスは、絵を書いていたと答えました。国王はそれを知って、すぐに首を切るよう命じました。ブリアスが自分が何していたのかという秘密を言ったからだというのです。
哲学者のフィリピデスは、リシュマコス王[5]に仕えることにしたとき、自分が同王の秘密を知らないことにするという条件を出しました。王の警護を務めてから、秘密というのが神聖なものだと理解したからです。
私どもが救われるためには秘密を守ることが決定的に重要です。告白の秘密を通じて、我らが主はお持ちになる豊かさ全てをお授けになるからです。このように秘密を守るだけで、聖パウロがご存じであった偉業を知るのです。目で見ることも、耳で聞くことも、心に描くこともできないことなのです。
註
[1] ディオドロス・シクロスDiodorus Siculusは、前1世紀のシチリア生まれのギリシアの歴史家。『歴史叢書』を著す。
[2] アゲシラオス二世AgesilausII(紀元前401年~紀元前360年)はスパルタ王。アテネなどの同盟軍がスパルタを攻撃した際に、王位についていた。
[3] デモステネス(紀元前384年~紀元前322 年)は、アテナイの雄弁家、政治家。反マケドニア派の中心人物。
[4] ピタゴラス(紀元前572年頃~紀元前492年頃)は、古代ギリシアの哲学者、数学者、宗教家である。ピタゴラスの定理を発見したとされる。
[5] リシュマコス(紀元前360年頃~紀元前281年)は、アレキサンドロス大王に仕えた武将で、後者の死後、トラキア総督となり、王を名乗った。
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