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注意されるのは素敵なこと

注意や指摘されたとき、教えてもらったときに「恥ずかしい」と感じたりして自己嫌悪に陥ることはありませんか?だけど、言ってくれる人がいるというのはとても素敵なこと。

今日はそう感じたことのお話。

言い訳ばかりの言葉から感謝の言葉へ

私は学生の頃、部活で「こうしたほうがいいよ」とアドバイスを言ってくださる先輩へ「今回はたまたまこうしていたので」「こうしたほうがやりやすいので」などと言っていたことが多くありました。それを見かねた先輩から「言い訳多いよね」と指摘をされ、自分でも気づけば最初に発していた言葉が「でも」「だって」になっていたことに気がつきました。

注意されてからはその最初の一言、「でも」「だって」だけは言わないように努めました。すると次第に口をついて一言目に出る言葉は「ありがとうございます」になっていきました。

聞く耳を持たない者は教えてもらえない

こうした過去を最近思い出すきっかけがあったのは、習い事での出来事です。新しく入られた高齢の方へ「こうしてください」と下っ端ながらにも注意したところ、「わかりました」も「ごめんなさい」の一言もありませんでした。「ここの動作はこうですよ」と教えれば「忘れていただけです」とのお返事が。これは昔、私が先輩へ怒らせていた返し方と同じでした。

教わった際に、その教えは間違っているとたとえ反発したくても、たまたま今回だけのミスと言いたくても、一番最初に発する言葉が「わかりました」や「教えていただきありがとうございます」と言えるか言えないかでその後の指導者の態度は急変するであろう。

二言目に発する言葉がたとえ反対意見や言い訳であったとしても、最初の一言目が素直に受け入れる言葉であれば、私はこの方へ指摘することを諦めることはなかったように思う。

注意されるのは恥ずかしいことではない

こうした考えを振り返ったとき、私はいつも色々な方から教えていただく機会が多いことに気がついた。自ら質問するようにしていたこともあるが、おせっかいですよ・・・と思わんばかりにしっかり教えようとしてくれる方もいた。たくさん指摘も注意もされてきた。しかし、きっとこの高齢の方と同じような受け答えをしていたらその指導は次第になくなっていき、気づけば周りから見て「恥ずかしい人」「迷惑な人」「好きになれない人」「一緒にいたくない人」でいたかもしれない。そう、注意も指摘もされず、何が悪いかも教えてもらえず知らないまま大人になっていくのだ。

素直に聞く耳を持ち続けたい

素直に聞く耳を持つというのは、年を重ねるほど難しいもの。それは自分の価値観や大切にしている軸が大きくなり、プライドが大きくなるからこそ。でも、だからこそこれは凄く大切なことで、いつまでも自分自身が成長していきたいと思うなら忘れないでいたい。

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