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真夏、夜汽車で ー急行「安芸」のことー


#昭和 #国鉄#夜汽車#C59#C62#呉線#広島県#急行安芸

呉市に住む親戚を訪ねて、寝台急行「安芸」にひとり乗ったのは10歳の夏休みだった。
列車は台風に出くわし、本来ならば所要15時間半のところを20時間かけてやっと東京から呉にたどり着いた。
途中、徐行しつつ、あるいは一時停止しつつ、目に入る東海道線、山陽線沿線のそこかしこで、古い家屋の屋根瓦が、台風のつむじに合わせて同じ向きの角ばかりが崩れているのを見た。

いわゆるSLブームの頃、「安芸」は呉線内で蒸気機関車が牽引することで知られていた。私の旅の目的も半ばはこの列車に乗ることにあった。
当時函館線では急行「ニセコ」が勾配区間でC62を二両つないで疾駆し、ジェット機のような走行音も相俟ってファンを魅了した。
私には連絡船を乗り継いで「ニセコ」に乗ることは難しかった。
「安芸」はC62の前頭に列車名をデザインした美しいヘッドマークを掲げて、風光明媚な瀬戸内をエレガントに走っていた。往年の蒸機特急黄金時代を偲ばせて人気を集めた。
そんな列車が毎日、首都東京発着で運転されていたとは、キツネにつままれた気分である。

夜八時、東京駅で「安芸」のB寝台車に乗り込むと、寝台側の窓の縁に謎の黒い粉が散らばっていた。私の家に煙草を吸う人はいなかったが、それはきっと煙草に関連した炭化物だろうと思った。
その正体が、蒸気機関車が煙突から吐き出す「シンダ(石炭の燃えかす)」だったのではないかと思い当たったのは、はるか後年のことだ。
この列車のB寝台車は、開閉可能な窓を持つ客車に、後から冷房装置を取り付けたものだった。
窓は特急用車両のような気密構造ではない。
真夏のこととて、窓はすべて閉じられっぱなしではあったろうが、シンダは、トンネルの多かった呉線内で、いわばぶかぶか・ゆるゆるの中古車両の窓の隙間から、毎日おおらかに侵入していたのではなかったか。
東京駅に発着する客車の整備、清掃を担っていたのは品川客車区である。当時そこが扱う車両のうち、蒸気機関車が引く定期列車はたった一本、「安芸」の編成のみだった。
「安芸」の清掃のためにわざわざ特別の配慮がなされていなかったとしても不思議ではない。
そんな貴重なシンダを目の当たりにしながら、ティッシュに包んで持ち帰らなかったのが惜しまれた。

遅れに遅れて西下する「安芸」を、山陽線糸崎駅で引き継いだ蒸気機関車は、C62よりもずっと希少で、全国でここ糸崎機関区にたった三両しか残っていないC59だった。
機関区から本線へと悠々と向かう側線上で、はじめてその機関車が走るのを見た。ナンバーはC59162。
後で調べたら、敗戦後、新三菱三原工場で新造された「アプレ(戦後派)」である。
名高いC62は政治的事情により、49台全機が敗戦以前に製造されたD52からの「改造」という名目で造られたが、C59は違う。東海道、山陽線の急行用として戦後「新製」が許された唯一の機関車なのだ。
162号機の運転席には、後から改造された明り取りの窓がある。誰が望み、誰が設計し、誰が裁可したのかは知らないが、これは広島工場ならではの意匠である。
C59162は生粋の広島生まれ、広島育ちといっていい。
私にはほれぼれする姿だった。まさにラッキーというほかなかった。

東京を出るとき、両親に、呉駅に着くまで途中駅でホームに降りてはいけない、と厳命された。
言いつけを守ったから、東京機関区所属のEF58がC59に交代する場面を私は見ていない。
いや、いつ目的地に着くとも見通せぬ不安な移動に消耗してしまい、機関車交換を見に行く気力がすでになかったというのがほんとうだ。
昼前に着くはずの汽車が呉駅についたのは夕方4時過ぎだったのだ。
そういえば、昼飯はどうしたのだろう。自律神経が変調をきたして、ランチどころではなかったのかもしれない。

ダイヤが滅茶滅茶になっているせいだろうか、C59は汽笛をしきりに鳴らしながら駆けた。
普段とはまったく違う時刻に通過する際の警笛かと私は思った。
出張に名を借りた慰安旅行(高度経済成長期のこととご承知おき願いたい)に向かうサラリーマングループの一人は「君のようなSLファンへのサービスかな」と言った。
だが「安芸」の機関士が鳴らす汽笛は、東京への線路が開通した、復旧したと沿線住民に知らせるメッセージだったのかも知れない。
狼煙のごときものだったのかも知れない。
はるか後年そう私は思った。
かつての軍都、呉は東京に直結していなければならなかったからだ。
台風はとうに広島県の東に過ぎて、呉線内の最優等列車は徐行もせずに快走して呉駅に着いた。
錆朱色のざらざらしたホームによろよろと降り立つと、私は出迎えてくれた親戚のお兄ちゃんに抱えられながら、這う這うの体で改札を通り抜けた。遅延したので急行料金の払い戻しがあったらしい。もうけたのう、小遣いにしんしゃい、とお兄ちゃんは言ったが、そんな小銭などどうでもよかった。
到着駅に下車したら、列車の先頭に駆けていき、買ってもらったばかりのカメラで蒸気機関車を撮影するつもりだったが、介添え付きの降車ではそれどころではなかった。

大旅行では、予定は大幅に狂うことがある。1000キロ近い遠距離列車に初めて乗った私はそれを学んだ。
はるか後年、バイト代を貯めて搭乗した初めての飛行機はシンガポール行きだったが、成田出発が27時間遅れた。
それでも私はまったく驚かなかったのである。


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