見出し画像

真夏、夜汽車で ー急行「長州」のことー

昭和40年代盛夏のある日、夜を徹して東京から走り続けた臨時急行「長州」は、午前11時前に山陽本線糸崎駅に着いた。
小学生だった私は、足取り軽くホームに降り立った。
列車には修学旅行用の電車が充当され、4人掛けボックス席には窓側から細長い鉄板製のテーブル展べることができる造りになっていた。
冷房はなく、天井には国鉄の略号である「JNR」のマークを付けた扇風機が回り、窓は開け放ったまま夜を駆けた。
私の席の向かいには若いサラリーマンが腰かけ、金属製の小瓶に入れたウイスキーを、時折思い出したようにちびりちびり舐めていた。
―どちらまで?
―呉です。
―では乗り換えか。小学生?ひとりで偉いですね。
―去年は急行「安芸」で直行だったのです。
―じゃあ、不便になっちゃったわけだ。そんなことをしているようでは国鉄の将来はますます暗いと思うよ。僕は四国の田舎に帰ります。大歩危、小歩危を知っていますか
―時刻表の表紙写真で見ました
彼は大層喜び、郷土自慢をひとくさり開陳した。
宇高連絡船に乗るために岡山駅で下車した彼は、もう一度車内に戻り、冷凍ミカンの入った網袋を押し付けて、じゃ気を付けて、と言って軽く片手を上げて降りた。

昨夏は寝台急行「安芸」で不安と緊張の時間を過ごしたが、今日の私は去年の私ではない。
家から持ってきたおむすびは、朝飯として早々に平らげてしまった。
母が握ったおむすびは海苔で包んではあるが、味付海苔ではないし、何の添え物もなかったから、かぶりついて梅干しに到達するまで、海苔本来、米本来のかすかな味以外、味らしい味がしない。ひたすらかぶりついて、やっと中核にたどり着いてみても、あの舌がひん曲がるような酸っぱい梅干しが一つあるだけだったから、達成感はまるでなかった。
当時は駅の売店や長距離列車の車内で、ティーバッグにお湯を注いだ緑茶を売っていた。容器のパラフィンの匂いが懐かしい。
おそらく途中駅のホームで買い求めたのだったろう、そのお茶でおむすびをようよう流し込んだ。

昼食は糸崎駅で呉線の普通列車に乗り換える間に、駅の立ち食い蕎麦とやらを食ってみよう、と予定を立てた。
東海道本線は新幹線開業と同時に日本の大動脈の地位から一気に転げ落ちたが、山陽本線はいまだ昼夜を問わず特急・急行がびゅんびゅん行きかう一級幹線である。大学になぞらえれば京都大学である。山陽線の乗換駅ならば蕎麦屋くらいはあるだろう。
漱石は「坊ちゃん」に、「ねだん付の第一号に天麩羅とある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。」と書いた。松山に赴任して初めてはいった蕎麦屋のくだりである。
私はそれを真似て、品書きのいの一番にある天ぷら蕎麦を注文した。大きな声を出したつもりはないが、先客たちが等しくこちらをちらりと見た。共通語を話す小学生の一人旅が珍しかったのか、一番高いのを注文したのを生意気だと思ったのか、それは分からない。
上がったばかりの蕎麦は汁が透き通っていて、一瞬ひるんだが塩味は十分に濃かった。
おぼろ昆布がかかっていたかも知れない。刻んだ葱の横に浮かぶナルトは東京の蕎麦屋で目にするものとは色も模様も違っていた。
真夏の真昼のプラットフォームで、初めて駅蕎麦を啜ったのだった。

はるか後年、私は富山県高岡市と石川県金沢市との間を往復する日々を過ごした。
高岡の駅蕎麦は真っ黒なかつおだしで、金沢のは透明な昆布だしだった。倶利伽羅峠の西東では、こんなにも違うものかと思った。

どんぶりを返す時、目の前ににゅっと生えている古レールでできた屋根支柱の高いところに大きなオニヤンマがとまっていた。生きているオニヤンマを見たのはこの糸崎駅が初めてだった。

乗り替えた呉線モハ80系電車が、ブレーキをかけて小駅に停車した。
モハ80は国鉄が客車並みの座席配置を取り入れた初めての電車である。
この電車の成功が、後の「夢の超特急」=新幹線の基礎を築いた。
南に望む瀬戸内海の海波が眩い。すべての窓は開け放たれ、潮風がほしいままに通り抜けていく。
眼下に拡がるプラットフォームは強い光を照り返し、キラキラと銀色にきらめく鉄粉があたりに舞っている。鋳鉄製の軟らかいブレーキシューが、鋼鉄製の硬い車輪に削られて辺りに飛散する。
銀色に輝く真夏の粉雪である。
その粉雪が潮風に侵され、長い年月を経て、ホームも線路もすっかり錆朱色にまみれている。
蝉の鳴き声がかまびすしい。
発車間際に駆け込んできたセーラー服の少女が、私がひとりで陣取っていた4人掛けのボックス席を認めると、対角の席に腰を下ろした。着席する刹那、ちらりと視線が合った。浅黒く日焼けした少女は美しかった。
なまっ白い足を半ズボンからむき出しにした私は、もう目を合わせることができなかった。
しきりにハンカチを使って、少女は動悸を鎮めていた。
20年も前に製造されたモハ80は、いったい幾度ニスを塗り重ねたのか、干割れて飴色に変色した古めかしい木張りの壁に、もたれる少女の横顔を乗せ、大仰なモーターの音を唸らせて、物憂く次の駅へと走り始めた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?