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【愛恋掌編①】 先生とリボン

   
 人間は、自らの命の危険にさらされたとき、最も大切な人の名前を呼ぶという。僕がそれを知ったのは、あの大きな地震があった日だった。

 その日は春休みで、東京の大学に進学していた僕は里帰りをしていた。いい大学生が旅行もせず、友達とも遊ばず、実家でごろごろするなんてと思われるかもしれないけれど、みんなが大学生になったからといって、急にきらきらした人間になれるわけではない。東京に行っても、僕は僕のままだった。
 両親は大学進学とともに、一人っ子だった僕の子育てに興味を失ったようだった。いや、解放されたと言うべきか。帰省することをあらかじめ伝えてはあったけれど、予約をしているからと言って二人で京都旅行に出かけていた。

 二階建ての部屋で、僕は高校の卒業アルバムを眺めているうちに昼寝をしてしまったようだった。実家が好きなのは、この部屋でアルバムを見られるからだ。そんなに好きならば下宿先に持っていけばいいと言うかもしれないけれど、それは少し違う。僕は高校時代の空気を残した自分の部屋で、高校時代の感情を保ったままでアルバムを眺めていたいのだ。
 本当に好きだったのだろうか。僕はあまりに開きすぎて、並んでいる先生の順番さえ覚えてしまったページを見ながら考える。二列に並んだ国語科の右から二番目に立っている中村先生は、実質的に活動しているのが、僕と同級生の平田さんと二人だけの図書委員会の顧問だった。活動は放課後、図書室の貸し出し係をするだけだった。職員会議などがなければ、図書室の担当として先生が下校時間まで事務室にいるのだから、委員など誰にも必要とされていないのだった。
 僕は先生に会いたいだけの理由で、熱心な図書委員のふりをして貸し出し係の仕事をした。平田さんは国立大学に進みたいのだと言って、いつも僕から一つ席を空けて勉強をしていた。僕の学校で、図書室で本を借りようとする生徒は一日に二人もいなかった。だから、僕は自分の後ろにいる先生のことをずっと感じることに集中することができた。
 
 委員の仕事をしているのが、先生と一緒にいたいためだと気づかれないために、僕は読書家のふりをした。本が好きな雰囲気を出すには何かこじらせている感じを出した方がいい気がして、「人間失格」の題名にひかれた太宰治を読んだ。「人間失格」を読み終わったら、「斜陽」を読み、「女生徒」や「グッド・バイ」にも手を伸ばした。そのうち気がつけば、ただの太宰好きになっていて、「富嶽百景」は自分が求めていた暗さがなくて物足りなかった。

「**くんは、本当に太宰が好きなんだね」

 黒いカバーをした新潮文庫を読みふけっていたとき、不意に先生から声をかけられたことがある。化粧品なのか髪につけたものなのか、甘いにおいがはっきりと感じられて僕は思った以上に動揺した。
「いや、ただの時間つぶしです」
「えっ、時間つぶしなの」
「だって放課後に本を借りる人なんて、ほとんどいないじゃないですか」

 その日、僕は布団に入って眠りにつく前、何度も先生が口にした言葉を再現した。落ち着きのある声の質感や地元の人間とは微妙に違う話の抑揚とか、振り返ったときに目に入った黒い長い髪とリボンとか、覚えられるだけのことを記憶にとどめようと必死に繰り返した。
僕の志望大学は、東京の私立だった。偏差値的に身分不相応な大学を志望したのは、中村先生が卒業生という理由だけだった。

 先生に意識を集中するため、布団を頭からかぶって記憶を再現しているうちに、僕は自分の答えがなんと凡庸なものだろうと思った。太宰が好きな高校生を装うならば、もっと理由のない虚無感や絶望感を出すべきだった。僕は再び先生に声を掛けられたときに何を言えばいいか考えた。頭に汗をかくくらい考えた。考え過ぎて、地球を周回する人工衛星が定められた軌道からはみ出すくらい言うべき言葉を頭の中で繰り返した。

「トカトントン……って、僕も声がするんです」
「えっ、どういうことなの」

 先生が少し驚いたように小さく問い返す。

「古文の助動詞の活用をクラスで一斉に唱えさせられているときとか、三角関数の公式を語呂合わせで覚えようとしているときとか、遠くからあの声が聞こえるんです」

 アルバムを開いているうちに、僕は昼寝をしていた。実家に帰ると、なぜこんなにも眠たくなるんだろう。

 確かに大きな、長い揺れだった。今まで経験したことのない揺れだった。いくら、いつでもどこでも眠れる僕でも、さすがに一度は目が覚めた。

 だけど僕は、もう一度目を閉じた。二十歳の眠りをあなどってはならない。あともう少しで、アルバムの中の先生に、僕が何度も心の中で繰り返しながら、口にすることができなかったあの文句を言うことができそうだった。こんなに気持ちのいい睡眠、夢を見ながらもう一人の自分は夢であることを意識して、次に起こることを期待して意識しているような眠りは経験したことがなかった。
 いつ建ったのか分からない、いかにも田舎らしい古いことだけが自慢の図書室で、椅子に座って太宰を読んでいる僕の後ろに先生が立っている。先生が僕の肩の上に手を置いて静かに口を開く。先生と教え子といっても、異性ではないか。気やすく肩に手を置くなんて許されることなのか。先生の手はなぜ、これほど透き通るように白く、人間なのに冷んやりと竹細工のように心地よいのか。先生はもしかして、それとも……。
 
 地震があってから、しばらく時間がたったのだと思う。窓の向こうから、今まで聞いたことがないほどけたたましく、町のサイレンが鳴った。その音は途切れることなく続いた。急に不安が襲ってきた。僕は目を覚まし、カーテンを空けた。
 
 辺りは薄暗く、みぞれが交じったような雨が降っていた。それだけではなかった。遠くから黒い水の流れが、建物の屋根とか車とか、道路に生えていた木とか、ありとあらゆるものをのみ込んで押し寄せてきているのがはっきりと分かった。津波だった。学校の授業やニュースで見たことはある。でも、本当にそれが我が身に起きることがあるなんて考えたことはなかった。寝ている場合ではなかったのだ。
 
 なまものを煮詰めたようなにおいとともに、迫りくる津波が近所の家を次々と壊していく。あの家も、この家も、形を失っていくのが近所の誰の家なのか、考えている時間はなかった。あと数秒で、あの黒い水の壁は僕の家に達する。津波に耐えて残った家は、ほとんどなかった。胃の粘膜が裏返って今にも吐きそうで頭がひどく痛むのに、奥の芯のような場所では妙に冷静で、震える自分を見つめていた。卒業アルバムを僕は手で引っつかみ、先生のページを破ってポケットに押し込んだ。

「中村先生、助けてください」

 僕は叫んでいた。叫ぶと同時に二階の床の方から、冷たい水が体を浸してきた。三月の水はまだ冷たく、皮膚を切った。
どうせ死ぬのなら、水に命を奪われるのでなく、最後まで自分の意志で命を支配したいと思った。
 
 今ならまだ、体の自由が少しきく。服を脱ぎ捨て、黒い水の中に飛び込んだ。空中を落下しながら、もう一度、先生の名前を呼んだ。
 先生だって生きているかは分からない。命を拾っていれば、もうすぐ子どもが生まれるはずだった。
 

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