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自然のままの姿を見られる、国立科学博物館附属 自然教育園


庭園美術館の隣は、緑豊かな自然教育園

 庭園美術館を見終わり、いつも通りJR目黒駅から帰ろうと思ったのだが、ふと反対方向にある都営三田線の白金駅から帰ってみようという気分になった。どちらに出るにも徒歩約7分なので、違う道から帰るのもいいかなと思ったのだ。
 美術館の門を出て右に行くところを左へ歩き始めた。するとすぐ隣に自然教育園の入り口があるではないか。庭園美術館のそばにあるのは知っていたが、もっと奥のほうへ入っていかなければいけないのだとばかり思っていたのだ。まさか並びにあったとは。
 閉園時間まであと1時間半近くある。のんびり歩きたくなるのを我慢してサクサク歩けば、園内を1周することはできるだろう。暑さの割に日が落ちるのが早くなったとはいえ、まだ日は高い。思い立ったら吉日、寄ってみようではないか。

予備知識を得られる展示ホール

 入園料は大人1名320円。や、安い。しかも高校生以下と65歳以上は無料とのこと。庭園美術館のすぐ隣で、こんなに安く入れるのであれば、もっと早くから来ていればよかった。
 教育管理棟にはロッカーが配備されているので、重い荷物などはこちらに入れ身軽な状態で歩くことができるのは嬉しい。管理棟内の展示ホールには、子供たちのために作られた「ミッションクリアのためのヒント」のほか、「自然教育園見ごろ情報」などのパネルがあり、ここで予備知識を得られるようになっている。園内で見られる野鳥のはく製も飾られていた。

丁寧な「見ごろ情報」があるので、予備知識がなくても十分楽しめる
子供たちのため?の、ミッションクリアのためのヒント
園内には湿地帯もあるので、水辺の鳥も展示されている

 小説を読んでいると野鳥の名前が出てくることがあるが、鳥に関しては全くの門外漢。どのような姿をしているのかが分かればもっと楽しいのにと思いつつ、積極的に勉強することもなく今まで来てしまった。いろいろなはく製が並んでいるので、モズってこんな姿をしていて、冬に良く見られる鳥なのだ、と知ることができる。さすが、自然「教育園」である。

モズ。冬によくみられる鳥なのだそう。

まれに見る豊かな自然が残る地

 園の説明パネルによると、この自然教育園は室町時代に白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたのだそう。白金といえば高級というイメージがあるが、室町時代から豪族が住んでいたのか。
 江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は陸海軍の火薬庫として、大正時代は宮内庁の白金御料地へと移り変わり、昭和24年に「国の天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として一般公開されるようになったのだという。
 一般公開されるまでは、庶民に開放されることがなかったため「まれに見る豊かな自然がここに残された」そう。人工的に造られた植物園や庭園と違う、自然のまま、ありのままの姿を観察できるのが魅力だ。
 自然教育園の入り口は、目黒通り(正式路線名は都道312号白金台町等々力線)に面している。4車線道路で交通量も多いほうだ。にも関わらず、園内に一歩足を踏み入れると、もう別世界。鬱蒼とした森の木々のざわめき、虫の鳴き声に心を奪われてしまう。

自然教育園の入り口付近からして、もう大自然の中にいるかのよう

時間とともに変化していく林

 面白いのは、昭和25年(1950年)頃に若い松林だった場所の変遷が見られること。見られるといっても、ビデオのように変化をまじまじと見られるわけではないが、案内板のパネルを読むと、この地で木々がどのように入れ替わってきたのかがわかるようになっている。
 それまで屋敷として使われ、手入れがなされていた際には松が多く茂っていたという。ところが自然教育園となり下草を抜くといった手入れを止めたことで、ウワミズザクラ・イイギリ・ミズキといった落葉樹や、スダジイ・タブノキといった常緑樹が松林の下に育って来たという。
 1963年頃には、落葉樹の高木に光を奪われ、それまであった松が枯れ始めた。さらに成長の遅かった常緑樹が高くなるにつれて、今度は落葉樹などが枯れ始めているそうで、やがては常緑樹林へと変わっていくというのだ。おかげで現在、松の数はかなり減ってしまったという。
 これまで林といえば、ずっと同じ木が生えているとばかり思っていたので、こうした変化が起こることを初めて知った。

草食系だって過酷な生存競争あり

 そういえば一時期、ヒト、とくに男性の性格や行動様式を表す言葉として草食系、肉食系という言葉が流行ったことがある。定義は論者によって異なるそうだが、大雑把に言って草食系は消極的、軟弱というイメージだろう。実際の植物も同様に思われていた。
 だがある時から「植物にも競争があり、ほかの木々よりもより高く光を求めて成長しない限りは生き残れない」「動物のように動けない分、むしろ生存競争は激しい」と解釈を正す説が出てきていたように記憶している。
 まさにこの植物園では、極力自然そのままに、ありのままの姿を見せることを主旨としているため、時間とともに淘汰される樹木があり、育つ樹木があり、より高く、より上へといった競争に勝ち抜いた木のみが残る様を見ることができる。今ある木々はそうした競争を勝ち抜いて生きているのだと思うと、頑張ったのだねと思うと同時に、肩身の狭くなった松が不憫に思えてくる。

400~500年前に作られた土塁

 また、室町時代に白金長者と呼ばれる豪族によって、外敵や野火を防ぐために築かれた土塁も見ることができる。土塁は館の周りなどに土を堤防のように盛り、その上にシイノキを植えたとされている。現在は館の周りの土塁の一部を切り開いて来園者用の道が作られているので、そこを通るときに土塁の断面を見られるようになっている。
 もともと館があったあたりは、少し小高い位置にあるのだが、さらに土塁を築くことで、敵から守ると同時に敵の襲撃をいち早く知ることができたのであろう。今の感覚でいうと館の範囲は「小さい」と感じるのだが、室町時代の豪族というのだから、当時としては大きかったはずだ。
 しかし、周囲に土を盛り、木を植えるのにどのぐらいの期間・人々が関わったのか。なぜシイノキが選ばれたのか。それによって本来の生態系は崩れなかったのだろうか。いくつもの疑問が出てくる。

土塁の一部を切り開いて道をつくった。両側の小高くなっている部分が土塁。
思っていたより低い上に、随分となだらか

倒木も自然のままに

 更に奥へと歩を進めると、江戸時代に松平讃岐守の下屋敷の面影を残す樹齢約300年の「おろちの松」がある。残念ながらこの松は、令和元年の台風で倒れてしまったが、倒れた幹や根の様子を観察できるようにあえてそのままの状態にしてあるという。もちろん、歩くにはまったく影響がないようになっている。ずぼっと抜けた根を見ると、高さの割に随分と短い印象だ。根の先端部分は土中に残っているのだろうか。
 せっかくなので倒れた松の写真も撮りたかったのだが、庭園美術館でかなり撮影したあげく、自然教育園でも調子に乗って写真を撮りまくっていたので、とうとう充電がなくなってしまった。まだ半分以上あるというのに。だが携帯の充電がまだ残っていたら、夢中になって撮影していたことだろう。時間内に回れなかったかもしれない。案外、充電がなくなってよかったのかも。その分、じっくり観察することにした。

夢を見ているような時間も終わりに

 最後は時間を気にしつつ、どうにか回り終える。閉園時間ギリギリに門の外に出ると、会社帰りの人々や車がひっきりなしに行き交う現実世界が待っていた。静寂な空間から、ものすごい喧噪の中にいきなり放り出されたような気分だ。
 よくハイキングに出かけて街へ降りてくると、なんとなく非日常から日常へと強制的に引きずりおろされたかのような錯覚に陥るが、それと同じ感覚になった。それだけ「森の中にいた」ということだろう。
 また、来よう。そして今度はゆっくりと園内を回ってみよう。そうすれば、展示コーナーで見たはく製の鳥たちの実際の姿や、小さな生き物たち、「見ごろ」と紹介された植物たちに会える(気づく)かもしれないから。

<参考URL>
国立科学博物館附属 自然教育園

道路WEB 


 
 


 
 

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