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伊東で出会った三浦按針

 このお正月は、静岡県の伊東に滞在していた。滞在中、毎日のように市内を散歩していたのだが、松川という川沿いの遊歩道を海へ向かって歩いていた時に見つけたのが、三浦按針(あんじん)の銅像があるメモリアルパークだ。

 お恥ずかしながら歴史に興味があれど、知識が異様なまでに乏しい筆者。河口付近に建つ記念碑を見た時には、誰?何をした人?とアタマの中は、はてなマークだらけ。按針なんて変な名前、と思ったのも当然。実はイギリス人でその名をウィリアム・アダムスというのだそう。

日本を目指すきっかけ


 この三浦按針ことウィリアム・アダムスは1564年(永禄7年)生まれで、イギリス東部のジリンガム出身。12歳の時から造船所で船大工として働いていたが、造船よりも航海術に興味を持ち、航海術や天文学を学ぶように。

 その後、海軍へ入隊し貨物船の船長などを経たのち、貿易会社のバーバリー会社で航海士・船長として活躍していた。その時の乗組員からオランダのロッテルダムから極東を目指す船があり、ベテラン航海士を探しているという噂を聞き、弟のトマスらと一緒に志願した。これが日本を目指すきっかけだ。

困難を極めた航海


 当初、5隻の船からなる船団で主任航海士として極東を目指したアダムスだったが、途中で1隻はポルトガルに、もう1隻はスペインに拿捕されてしまう。さらにもう1隻は他の船とはぐれてしまい、航海を諦めてロッテルダムへ戻っていった。残る2隻で太平洋横断を試みたものの、途中で1隻は沈没。アダムスの乗った船だけが東へと航海を続けた。

 しかし、アダムスの船も順風満帆ではなかった。途中、食料補充のために寄港した先で赤痢や壊血病などの感染病が船に入ってきて蔓延したり、インディオの襲撃に遭ったりと、船員を次々に失っていく。インディオの襲撃でアダムスの弟、トマスも失っている。

いつ、どうして日本に来たのか


 ようやく日本に着いたのは関ヶ原の戦いのわずか半年前の1600年。オランダを出てから1年10か月が経過していた。漂着したのは大分県臼杵市(うすきし)佐志生(さしう)の港。自力で陸に上がれなかったため、佐志生の城主だった太田一吉(おおたかずよし)が出した小舟で上陸した。

 太田が長崎奉行に報告し、アダムスらが乗った船は大阪へと送られ、大阪城で徳川家康に引見。当時、海上運送の必要を感じていた家康は、アダムスの持つ船大工としての知識を評価し、江戸(日本橋)に屋敷を用意して住まわせることにした。

江戸での生活


 江戸では、家康自身が数学や地理学を、重臣たちには砲術や航海術、天文学を指南させたというのだから、イギリスで船大工や海軍、航海士として活躍していた時代に多くのことを学んでいたのだろう。よほど、知的好奇心が旺盛だったにちがいない。

 家康は幕府の外交顧問としても重用しているくらいだから、学識だけではなく、人間的にも信頼に足る人物だったと思われる。かねてから海上運送の必要性を感じていた家康は、船大工の経験があるアダムスに、日本初の洋式帆船の建造を命じた。

伊東との縁は造船で


 アダムスは造船にあたり、いくつかの地形的条件を示している。その条件とは、

・海にそそぐ河口付近(厚みのある砂洲があること)
・用材を切り出せる場所が近いこと(=天城山系)
・有能な船大工が揃うこと

 恐らく江戸から近いことも候補の一つだったのだろう。こうして伊東の地が選ばれ、松川の河口にドッグが造られた。1604年(慶長9年)にアダムスは日本初の洋式帆船(80t)を造った。これに試乗して大いに喜んだ家康は、さらに外洋に出られる1200tもの大型帆船も同地で作らせ1607年(慶長12年)に完成させていたという。

この付近で造船、出航したのだろうか(松川の河口から海を臨む)

三浦按針の名前の由来


 これらの功績を残したアダムスは、家康から三浦半島の領地250石と刀2本、脇差を下賜(かし)され、三浦按針という名を授けられたという。苗字の三浦は地名にちなんだもの、按針(あんじん)とは「水先案内人」という意味があるのだそう。

 日本に漂着した当初から母国への帰国を希望していたというアダムスだが、家康の引き止めやその後の功績から武士の身分を与えられ、日本人女性を妻に所帯を持つに至った。その後は造船だけではなく、オランダやイギリス商館を平戸に設立したり、自ら貿易を行ったりしていたが、家康亡きあとは、不遇な晩年を送り、平戸で生涯を閉じたと言われている。

太平洋を臨む按針メモリアルパーク

 造船が行われた松川河口付近には按針メモリアルパークがあり、按針の銅像と、1200tの大型帆船、サン・ブエナ・ベンツーラ号の彫刻がある(冒頭写真参照)。ちなみにこの船は実際に、メキシコまで航海し、その後もマニラ貿易に使われるなど太平洋で活躍したという。

 1200tの船と言われてもその規模を想像するのは難しい。だが、按針の銅像があるメモリアルパークから夕陽に映える海を臨むと、ここに家康が来て日本初の洋式帆船に試乗したのか、ここで家康はどのような夢を見たのか。次に造らせた大型帆船はメキシコへ向かって出航していったのか、メキシコで何を、あるいは太平洋でどのように活躍していたのだろうと、当時の人々に思いをはせたくなる。

 と同時に、眼前に広がる海はとても静かなのに、なんだか特別に広く大きく、夢に向かって走り出すかのような力強さを感じて、勇気をもらった気持ちになってくるのだから、不思議だ。

ウィリアム・アダムスの記念碑のすぐそばに建つ
三浦按針に感銘した英国人文芸評論家でオックスフォード大学教授のエドモンド・ブランデンの碑

参考URL:
□Wiki pedia より
・ウィリアム・アダムス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9

・徳川家康
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

□星野リゾート みちくさガイド
https://www.hoshinoresorts.com/guide/area/chubu/sizuoka/ito/miura-anjin/

ほか


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