本音と建前〜ラクロ「危険な関係」のトリセツ


危険な、という言葉は何故かひとを惹きつける響きがあるが、その点でこれはまずタイトルの勝利である。シンプルかつセンセーショナル。
このタイトルは、175通の書簡から成るその本文中に、さりげなく出てくる。「風と共に去りぬ」もそうだが、いかにも、という感じではなくさらりと組み込まれているところが上手い。

本編の内容はさておき、前に前振りとして置いてある版元や編者の言葉がむしろ本編よりも興味深い、というか別の意味でとても面白かった。
注意書き、要はトリセツだ。これがあまりにも言い訳じみているのが返って笑えるのである。

版元は、こんないかがわしい出来事はわが国においてあるわけがない、作者はありえない内容をいまの時代に再現して世の興味を煽ろうとする、これを我々は非難する、とディスる。

編者も、序文とはしているが言い訳に終始する。これはある書簡集のごく一部である、持ち主が出版したいというので自分は色々問題を指摘したけれども結局折れたわけで、こんな放蕩三昧、恋愛ゲームに明け暮れ、人を弄ぶ者たちは必ず報いを受けるのだ、あるいは男はこのような手管を使い近づいてくるので未婚の娘たちは重々気をつけるように、という悪い見本として役立てていただきたいという触れ込み。
ある母親がこれを読み「娘が結婚する時に与えれば有益だろう」と言ったとまで書いてある。そもそも出版をためらうような内容を貞淑な奥様という立場の女性に読ませるのすら疑わしいが、「お客様の声」を載せるのは説得力を増すためであろう。

これを真に受け、中には本当に「真面目な」利用方法で購入、と言う御仁もいたかもしれない、「娘に読ませる前に、まず検閲」とばかり。そしてけしからんと言いつつ、夜中に一人、こっそりとむさぼり読む自称紳士たちの姿が目に浮かぶ。あいにく、読者が期待するほどの生々しい表現はないのだが。

作者本人もこの作品を「他山の石として」とコメントしているが、これも予防線だろう。絶対に売れる、と確信犯的に出版された、と私は考えている。出版する側も、勝算が無ければ出さないだろう。何より、最初に目を通した自分達自身、スキャンダラスかつ息詰まる展開に、ページを次々にめくったはずだ。そして、これは売れる、売りたい(=儲けたい)、と考えた。

このトリセツは、売る側、買う側、双方の建前と本音を知り抜いた上での巧みなマーケティングのひとつだったのかも知れない。この言い訳、建前を出さなければ出版が許されない当時の事情がしのばれる。

これが現代なら大っぴらに「書店員が売りたい本」として展開出来るだろうか。それとも、「不倫を煽る」「風紀(←この言葉がこういう時だけゾンビのように蘇るのはなぜか)を乱す」だの何だのと無意味な圧力がかかるのだろうか。

初版は完売し、二ヶ月とたたず重版がかかった。「実在の人物に似すぎている」と言われた内容だけに、噂は噂を呼び、その後の話題にも事欠かなかっただろう。読者は、「あれ、読んだ?」「ああ、まぁね……」などと含み笑いしつつ愛読したに違いない。
暴露本はいつの世もよく売れるが、本作は只のそれでは当然なく、現代においても名作の誉れ高い古典として売れ続けている。

ちなみに、作者のラクロ、私がたまたま手に取ったのは数十年前に出された文学全集のなかの一冊だったが、ラクロ本人の、写真と見紛うほどのリアルな肖像画が載っており、それを見た時は少なからず驚愕した。なぜなら、かつて80年代のセックスシンボルとして名を馳せた往年の映画俳優、ミッキー•ロークに瓜二つだったからである。
そして私は若い時、彼のファンだったので出演映画を片っ端から見ていた。男の友人達は「別に顔が良いわけでもなく、どうしてあんなにやけた男が女にもてるのか(→納得いかない)」と口々に言っていたが、逆パターンもよくあることだ。美貌と色気は、必ずしも同居しない。

作中の主人公のひとり、ヴァルモン子爵は、ありがちなことに作者本人がモデルではと噂されたらしい。ラクロ夫妻は円満だったそうだが、この風貌ではその噂も無理もないことと思われる。実際、軍人として7年間駐屯、本作のネタ元となったグルノーブルの社交界では相当もてはやされたという。本人はあくまでも軍人としての立身出世を望み、ナポレオンの知遇も得たそうだ。

ナポレオンは、軍事戦略のひとつとして軍服をファッショナブルにして、軍人志望の若者を増やそうとしたという。軍人というもの、立派な軍服を着て表向きは男としての出世と名誉、裏は金がもらえるし女にモテる、ここにも建前と本音を利用されている。
ラクロがそれらの軍服を身につけていたなら、さぞ華やかな生活を送っただろう。

本編は結果として勧善懲悪のかたちで終わるが、誰も幸せにはならずバッドエンドである。主人公の二人、とうてい感情移入は出来ないが、悪徳の仕掛け人として不幸や予期せぬアクシデントもかいくぐり暗躍し続けてもらったほうが物語としては面白いだろう。ただそれでは「教育本」としての手前、都合が悪い。作者の本意は別にあるのかどうか、聞いてみたいところである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?