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置かれた場所で咲く、ということ

置かれた場所で咲け、

使い古されたこの決まり文句を私はずっと信じられなかった。

自分が置かれている場所、置かれる環境は選べないのに、そこで咲け、
とは、なんとも無責任な言葉だと思っていた。
その陳腐な代名詞は、微妙に咲いて、とっとと散れ、
と言っているようで、軽蔑さえしていた。

だから私は、その定型表現に逆らうようにずっと生きてきたように思う。

生まれてからの19年間、その時自分が置かれた状況から、いつもできるだけ遠く。敷かれたレールから、なるだけ外れて、生きようとしてきた。
生まれる国も環境も選べないから、自分の力で、違う世界へ行こう、みたいな。極端に言えば、あらゆることに逆らってきたし、そういうマインドがずっと私を推進させてきていた。


でも、高校の成績が足りなくて、第一志望の大学に落ちた後、
置かれた場所で咲く、
という今まで毛嫌いしていた言葉について、はっと、思うことがあった。


私が第一志望にしていたオランダの大学は、日本人に高校3年間の評定平均4.5以上を必須要件としていた。私の成績は4.0しかなかった。

日本の高校は、高校のレベルによって、授業内容、テスト構成、取れる成績が全く異なる。全く、

通信制の高校に通っている友達は、ほぼ勉強せずに動画だけをみて、全科目オール5をもらっていたし、
テストで基礎問題しか出されない学校に通えば、成績はとりやすい。

私の高校のテスト構成は、60%が基礎、20%が標準、20%が応用問題だった。だから、基礎問題を抑えても、6割点にしかならず、成績は大体3となる。5を取りたかったら、応用問題まで完璧にする必要がある。

それに、相対評価で成績がつけられるので、例え90点を取ったとしても、それより高い点を取った人が5, 6 人いたら、私は5をもらえない、4になる。

だから、それくらいシステムの違う高校を一括りで日本の高校、と括るなんて大学側はなんてナンセンス、不公平だとずっと思っていた。

学校の良し悪しは個人が決めることで、別にどの学校、誰、が良い悪いとかは思っていない。
ただ、なんで?と思うことをやめられなかった。
ただの僻みでしかなかったけれど、絶対私の方が絶対勉強してたし、知識もあるのにって思うことをしばらくやめられなかった。

でも、今になって、わかってきたことがある。

たとえ高校の難易度が違くて、私が難しいコンテンツをこなしてきたとしても、その高校各々の状況でベストをつくした、という点に着目したら、それは彼らの方だ。私は75%で文句を言っていたけれど、彼らは、その学校で100%完璧にこなした、だから、置かれた場所できる100%を、彼らはやっていた、ということ、私は、そうじゃなかった。

難しかったにせよ、私は、その高校の60、70%しか理解できていなかった。たとえそれが基礎だけじゃなかったとしても、その置かれた状況でのベスト、を尽くせなかったということ。

難易度が違うのに、同じ土俵で戦わなくてはいけない、ということに対する不公平さへは、

置かれた場所で、どれだけやってきたか、どれだけできたか、それだけ。

と思えるようになったことで、納得できた。


他に例を挙げれば、下手に進学校に進むより、少しレベルを落としていった高校で推薦を狙う方が効率的、というか、生きるのが上手い。
どうしたって完璧に私たちの能力を公平に図ることのできない世の中を、生きるのが上手い。

だから、この不公平さに不平を言いそうになるけれど、他人の立場環境がどうこうというのは全く関係がなく、私が置かれた場所で最大限の努力をするかしないか、それだけ。

もしかしたら、この決まり文句には、もともとこの意味があって人が使っていたのかもしれないし、もしくは私の解釈は間違っているかもしれないけれど、(調べてないので分からない)、なんであれ、自分が納得のいく解釈をできたから、良かった。この言葉と仲直りした気分。


置かれた場所を、避け続けた結果が今の私。
でも、置かれた場所から飛び出して、種から一人で初めで蕾になったからこそ、他の誰も経験していない人生を、私は生きていると思う。


置かれた場所で咲く、

まずは置かれている場所で、その先に自分で選んでたどりつく場所で咲き切るために咲くための準備を、全力をするべき、ということだと思う。

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