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小説 日輪 10

 太陽が照りつける暑い夏が訪れた。抗癌剤治療が終わり、体調が落ち着いたところで次は腫瘍を取り除く手術が行われる。八月の上旬、手術説明を受けるため、紗季や義母と一緒に病院へ向かった。


 正面玄関を入り、二階の乳腺外科で受付を済ませる。相変わらずとても混み合っていて、せわしなく、それでいて冷たい空気が充満していた。
 

 ひと山越したせいか、前回ここに訪れた時よりも遥かに気持ちは落ち着いていた。紗季と義母はスマートフォンを眺めながら、時々小声で会話している。彼女達の表情にもそれほど緊張感はない。義母の美津子は家にじっとしていられない活発な女性で、家電量販店でパートをしている。いつも髪をきちんとカラーリングしており、服装も若々しく、とても60歳を超えているようには見えない。紗季と違い、どこか男っぽいところを備えている彼女は、自分の無口な性格がわかるとあまり話しかけてこなくなった。細かい事を気にしない裏表のない性格は、程よい距離感を保つことが出来る。紗季の父親は自分以上に寡黙なので、そういうタイプの男の扱いを心得ているのだろう。


 1時間程待つと、掲示板に受付番号が表示される。三人で診察室に入った。

「ご主人と……お母さんですか?では、手術のご説明をしますね」

 鈴木医師は前回会った時と変わらない抑揚のない声で言った。


「抗癌剤が終わりまして、乳房のMRIを再度撮影したところ、腫瘍はとても小さくなりました。乳房を残すことが出来ます」


 鈴木医師は机のひきだしから「乳房温存術を受けられる方へ」と書かれたパンフレットを取り出した。そしてパンフレットに沿って、手術の方法や合併症についてひとつひとつ説明をはじめた。手術の前日から入院し、一週間ほどで退院となるようだ。手術の翌日からはもう歩けるし、食事も摂れるのだという。


「手術中、センチネルリンパ節生検というものを行います。手術中に脇のリンパ節に転移があるかどうかを確認するのです。乳癌が転移する場合、がん細胞はまず第一に脇のリンパ節に向かいます。もし転移があった場合、リンパ節を取ります。転移が陰性の場合は、乳房を部分切除するのみの手術になります」


 紗季も義母も真剣なまなざしで頷きながら説明を聞いている。

「手術の日はどなたがいらっしゃいますか」

「夫は仕事が休めないので、母が来ます」と紗季は言った。

「そうですか、わかりました。当日手術が終わったら、お母様に手術経過を説明させていただきますね。手術が終わり退院したあとは、取り除いた癌を顕微鏡で調べた病理結果がわかり次第、今後の治療をご説明します。まあ、術前に抗癌剤を行ったので、定期的に経過を見ていく形になると思います。術後は傷の周囲にリンパ液がたまる事があるので、その場合は針を刺して水を抜く処置を行ないます。リンパ液がたまらなくなったら、放射線治療を行います」

「わかりました」と紗季は言った。もう覚悟は出来ているというような顔つきをしていた。


 僕は放射線治療が実際にどんなものなのか全く想像が出来なかった。すごく恐ろしいもののように思える。放射線治療というと、末期のがん患者が最後に行う治療というイメージしかなかった。


「放射線治療は、当院では25回行います。週5日通っていただきます。毎日少しずつ放射線を当てるのです。皮膚の炎症が主な副作用で、抗癌剤に比べれば遥かに負担の少ない治療です。まあ、手術が終わったらまた改めてご説明しますね。何かご質問はありますか?」

「あの、がんを取り切れたら、治るんですよね?」

 義母は心配そうな表情で尋ねた。鈴木医師はまっすぐ義母の顔を見た。

「望月さんはステージⅡAですから、統計的にみれば5年生存率は95%以上となります。ですが、望月さんがその95%に入るか、残りの5%に入るかは、我々にはわからないのです。おそらく神様しかわかりません。ですから、もっとも効果があると統計的に証明されている標準治療を行っているのです」

「わかりました」と義母は答えた。紗季は目を伏せ、何かを考えているようだった。

 神様しかわからない、か。本当にその通りだな。そう考えると、もう心配しても仕方がないし、過去を思い悩むのも意味がないと思えた。

「では、このあと入院について係の者がご説明しますね」

「宜しくお願いします」と頭を下げた。義母もすがるような目をして「宜しくお願いします」と言った。


 また来週、麻酔科という診療科にも受診しなければならないらしい。そのほかにも色々説明があるようだ。全身麻酔の手術をするには、準備が必要なのだ。


 その日も結局5時間くらい病院にいた。三人とも疲れ切ってしまい、会計を済ませて駐車場に向かう頃には一言も口をきかなくなっていた。


 太陽の強い日差しが疲れた体に突き刺さった。熱を持ったアスファルトの上に、陽炎がさざ波のように揺らめいている。少し歩いただけで汗が吹き出てきたのでハンカチで首元を拭う。紗季は日傘をさしながら気怠そうに目を細めている。遠くから蝉の鳴き声が聞こえた。

「すみません。手術の日は宜しくお願いします」
 歩きながら義母に頭を下げた。

「手術が終わったらメールするわね。有休が余ってたし、気にしないで」
 義母は全身に疲労を滲ませていた。


 駐車場に着くと、紗季は義母に「お母さん、疲れたでしょう?どこかでお茶でも飲んでいかない?」と声をかけた。


「本当に疲れたわよ。疲れたからもう帰って寝る。あとで何かご馳走してちょうだい。圭さん、もう心配しても仕方ないんだから、陰気な顔してないで元気出しなさいね!」

 僕は苦笑を漏らしながら小さく頷いた。

 義母はそそくさと自分の車に乗り込み帰っていった。義母の言葉には裏がないので、余計な気を遣わなくて済むことが本当にありがたいと思う。


 直射日光に照らされていた車の中は皮膚が痛くなるくらい室温が上昇していた。エンジンをかけるとエアコンの吹出口から熱風が勢いよく出てきた。

助手席に座り「今日も暑いなあ」と紗季がつぶやいた。車の中にいても蝉の鳴き声が聞こえる。

「手術は本当に怖くないのか?」と僕は尋ねた。

「怖いけど、抗癌剤よりは怖くないかもしれない。もうやるしかないっていうか。不思議だよね」

「無理してないか?」

「癌がわかったときは、どうして私ばかりがって思って、色んなことを後悔して不安定になったけど、今は……未来のことだけを考えようと思ってる」

「そうか」

「手術が終わったら海に行こうって約束したよね」

「え?うん」

「その頃には色々食べられるようになってるだろうから、帰りに海鮮丼を食べたい。しばらくお刺身を食べられなかったし、あんまり外出も出来なかったから」

「うん。わかった」

「あと、一緒に買い物に行きたい。ディズニーランドにも行きたい」

「わかった。海だってディズニーランドだって、これから何百回でも連れて行ってやるよ。海鮮丼でもなんでも、好きなものを食べよう。買い物もしよう。旅行もしよう。あとは?」

「あとは、ランニングばっかりしないでたまには私と手を繋いで散歩して」

「わかった。あとは?」

「ジャージばっかり着ないで」

「わかった。あとは?」

「毎朝ハグして、寝る前にキスして。これからも毎日私が眠るまで手を繋いでて」

 何を言われたのかわからなくてしばらく言葉が出て来なかった。

「わかった。約束する」

 紗季は涙ぐんだ。

「俺が約束を破ったらまた殴っていいから。だから、これからは辛い時は辛いって言ってくれ」

「圭は無口だし鈍いし、辛いって言ったところで何も言ってくれないからもう好きじゃない。でも、圭が私を本当に好きなことはわかったから、もういい。口で言ってくれなくても、行動で示してくれればいい。一生私のわがままをきいてくれるなら許す」 

 散々心配をかけておいてなんてことを言うんだと思う。

「好きなだけわがまま言えばいい。お前の言うことなんか、わがままのうちに入らない」

 紗季は潤んだ目を伏せて、心から安堵したような表情を浮かべた。

 紗季がスマートフォンをブルートゥースにつないで音楽を流す。明るい陽気な曲が流れた。運転しながら、音楽なんてずいぶん久しぶりに聞いたなと思っていた。流れゆく街の景色が鮮やかに色づいて見えた。













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