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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その1伝統ってなに?

「不易流行」―不易(伝統・基本)を知らざれば基立ちがたく、流行(創意・工夫)を知らざれば風新たならず 芭蕉

伝統とは 京町家は伝統の町なかの住まいであり、建築技術的には「伝統木造軸組構法」と呼んでいます。では伝統とはなんでしょうか。
みなさんは伝統と聞いてなにを思い浮かべますか。「能」や「歌舞伎」などの芸能ですか。または「漆器」や「陶器」などの工芸ですか。あるいは「茶事」や「華道」などの習いごとですか。そしてそれらの伝統をどう思いますか。高尚すぎて近寄りがたいですか。高価で手が届かないですか。決まりが多くて面倒ですか。

伝統の漬物 京都の北方の上賀茂に「すぐき」という漬物があります。たまたま賀茂の河原で見つけた蕪の変種を育て、栽培から漬け込みそして出荷までをそれぞれの農家が手がけます。特徴的なのは天秤で高圧をかける本漬け、「室(むろ)」で発酵させる熟成です。天秤は塩漬けを早めるためと「すぐき」を水中に沈め、嫌気菌である乳酸菌の働きを促進するためです。「室」は乳酸菌が仕上げてくれる時間を短縮するためです。樽や「室」あるいは漬け込む人の手につく微生物が異なるため、農家ごとに味が異なります。

上賀茂風物の天秤漬け、今はプレス機もある

試行と工夫 むろん生み育てて伝えてきた農家は乳酸菌、ましてや免疫力を高めるとされるラブレ菌の存在あるいは発酵のしくみや、「室」による熟成の原理などは知る由もありません。また「室」で熟成するようになるのは明治以降で、それまでは5月を待たないと手に入りませんでした。「室」のおかげで私たちは12月末から3月ぐらいまで、伝統の味を楽しめるようになりました。

「すぐき」に見る伝統 こう見てくると伝統とは偶然や必要から役に立つものを選び、それを実現するやり方を生み育み、それを伝えていくことであり、継いだ者は伝えられたものをかたくなに守るのではなく、さらなる工夫・改良をしていくことと言えます。そして私たちはその恩恵に浴することになります。「すぐき」は私の好みで取り上げただけで、並び称されるしば漬けや千枚漬けなども同様ですし、酒、味噌、醤油なども同じ発酵食品です。いずれも腐敗という微生物の働きを発酵と腐敗に分け、人に役立つ(そればかりではないものも含まれているが)ように制御する伝統の作法です。そしていまだに身近なものです。

身近だった伝統 実は頭書に上げた伝統はたかだか50年ほど前には、京都において身近な伝統でした。40年ほど前に老舗の酒屋の業転のお手伝いをしました。あるとき施主から厄除けの夜伽(よとぎ)をするから来いと言われご相伴しました。酒肴も進み参加者から舞ったらどうやという声が上がり、施主の父と同年配の方が目配せしてそれは始まりました。施主の父が地謡を烏帽子親(男子が元服(14歳前後)するときに烏帽子を被せ、事後親代わりになる)が仕舞を披露したのでした。それを目の当たりにしたとき〝ああこれが京都なのか〟と思いました。そして施主の父が従業員を集めて謡の稽古をつけていることを知り、末席に加えてもらいました。師範の体調で「安達原」で終わってしまいましたが、貴重な体験でした。これは当時の京都でも必ずしも一般的ではなかったかもしれませんが、他の施主のなかにも狂言の稽古をしていたり、謡や舞を習っている方は少なからずおられました。

なぜ廃れた? 京町家も50数年前には身近な存在であり、伝統として生きていました。当時の航空写真を見ると街が京町家で埋め尽くされている中に、ぽつぽつとビルがあるという景観でした。なのになぜ京町家が廃れつつあるのか(本当はあったと書きたいところだが)、刀剣などのように文化財としてはともかく、実用としては意味をなさなくなってしまったのでしょうか。
歌は世につれ世は歌につれ、で衣食住も世につれ変わるのは仕方ないのでしょうか。確かに芸能を支えた階層がいなくなった、祝儀不祝儀も家でしなくなり、そのための道具もいらない、畳で育ったものが少なくなり正座すらできない、お客様を家に上げることも少なくなった、もてなしに軸をかけ花を活けても気づいてすらもらえない。

左・烏丸通魚棚から北を見る 拡築後 明治45年 『京都百年パノラマ館』淡交社 『町家再生の技と知恵』から転載 右・同左(烏丸通六角) 2022年

京町家は? 京町家でいえば商いの器ではなくなった、手入れを担った女中や丁稚もいないし、出入の職人もいなくなった、そんななかで残すべき値打ちがあるのか、あるいは残せるのかと問うことは当然です。
京町家を残す意味は何なのかを考えるのは後回しにして、次回は京町家がどうして廃れてきたのか、その歴史をたどってみたいと思います。




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