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【現代小説】金曜日の息子へ|第十四話 俺にとっての1992年

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1991年、ソビエト連邦が崩壊したこの年の1月にアメリカ軍を中心とした多国籍軍がイラクへの爆撃(砂漠の嵐作戦)を開始した。

宣戦布告は行われなかった。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。

1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止された。同日、多国籍軍は地上戦(砂漠の剣作戦)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。

アメリカのブッシュ大統領は記者会見で、「クウェートは解放された」「イラク軍は敗北した。我々の戦闘目的は達成された。多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利である」などと述べた。

一方で、イラクのフセイン大統領は、「あなたがたは勝利したのだ、イラク国民よ。イラクこそ勝者である。イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだ」と強弁した。
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とにかく3月3日には暫定停戦協定が結ばれ、4月に国連で恒久停戦決議が採択された。この湾岸戦争といわれる戦争にアメリカで様々な論争が吹き荒れている最中に俺はアメリカに入国した。

この年は、南アフリカがアパルトヘイトを撤廃したり、ECが「欧州連合」を創設したりと大きく世界情勢が動いた年だった。日本はというと宮沢内閣が発足したり、雲仙・普賢岳で火砕流が発生して40人もの命を奪う災害があった。

俺は寮で生活をするために、学期の始まる一ヵ月前に学校に呼び集められた。そこにはアメリカの各州から、あるいはヒスパニック系や黒人系が多かったがアジア人は俺だけで圧倒的に白人社会だった。

彼らとニューヨーク州のアディロンダック山脈、そしてバーモント州のグリーン山脈やシャンプレイン湖が見渡せるデッキに集められて説明をうけることになった。

学内には12の寮が点在しており、俺はアパートスタイルの寮に入ることになった。The State University of New York (SUNY) Plattsburgh校は、1889年に創立された総合大学だ。

カナダのモントリオールまで車で約1時間、ニューヨークシティまで約5時間、ボストンまで約4時間の場所に位置している。

キャンパスの周りにはアディロンダック山脈やシャンプレイン湖があり、自然に恵まれた環境で、夏にはロッククライミング、カヤックやハイキング、冬にはスノーボード、スキーを楽しむことができるそうだ。

雪質はパウダースノーだから今年の冬は最高の環境でスノーボードを楽しめそうだ。俺は数年前からスノーボードがまだスノーサーフィンと呼ばれている時から夢中になっていたからだ。

新しい住居にも満足した。寮には専用のフードコートもあって炊事をする必要もなく、俺たちは何不自由ない暮らしをしていたのだ。

驚いたことにクラスは多くが15~20人程度の小規模で教授や他のクラスメートとの距離が近いためとても心地良かった。

そのおかげで、気の合う友達もでき、よく授業の後に1時間も話し込んだり、一緒にご飯を食べたり、学校帰りに友達の部屋に寄り道をしたりした。

仲間内でちょっとしたパーティーを開くこともあって、それぞれ故郷が違うものたち同士、それぞれの考え方の違い方を愉しんだり、就職への不安を相談したり、恋愛に夢中になっている人たちの噂話をしたりと話題は尽きることはなかった。

二十歳を過ぎて、こんな気楽な生活ができるなんて思ってもいなかったから誰もが、はしゃいでた。俺の部屋は最上階の6階で、窓からはシャンプレイン湖を一望にすることができた。

とりわけ夕暮れ時のシャンプレイン湖は美しく、ビールを飲んで酔いが回ると、チャンプを偶然見つけるんじゃないかとよく眺めていた。

チャンプはいわゆるUMA(未確認動物)で、シャンプレーン湖(Lake Champlain)に住むということで "Champ" と命名されたのだろう。当時の日本ではこの手の話に懐疑的な空気があったが、ここでは信じている人が多かった。

あっという間にPlattsburgh Collegeでの最初の学年が終了した。毎日が新しく、忙しく、充実していてあっという間の1年だった。来期のクラス登録も無事に完了したので、安心して夏休みを迎えることができた。

Plattsburgh Collegeでは経営学や数学、コンピュータ系の基礎のクラスをぜんぶ取った後でやっとビジネススクールに入ることができて自分の専門教科をとることができる。俺は幸い一橋大学で取った微積分の単位を移籍できたので、こちらで数学をとる必要はなかった。

実はこの頃は数学がとても苦手意識があったから本当に助かったよ。Plattsburgh Collegeでは必ず副専攻をつけなければならないんだけど俺は「組織心理学」を副専攻にしていた。

実はこの学科のクラスが他の学校に比べて充実しているというのもこの学校を編入先に選んだ決め手だったのだ。

「組織行動学」では組織の中で人が取る行動について学んだり、「インタビュースキル」のクラスがあったり、アメリカならではといったところとして多様化した職場における公正な雇用について学ぶクラスなどがあって、どれもとても面白そうだった。

今学期は「モチベーション」のクラスをとって、何をもって人に行動を起こさせるのか、何が人の働くインセンティブにつながるのか、どうしたら目標に向かって努力をし続けられるのかなどを学んだ。

来学期にはこの副専攻の基礎のクラスで雇用主と従業員の関係とか、インセンティブやトレーニング、あるいは従業員のモラルについて学びたかったので「組織心理学」をとることにしたのだ。

長いようで短かった3カ月の夏休みが終わり、8月の終わりから秋学期が始まった。今学期取る科目は、文学や統計学、他にもコンピュータサイエンスとビジネスロー(ビジネス法)、そして組織心理学の5つにした。

一番面白かったのは、やはり副専攻の組織心理学だ。教授は世界的な大企業で組織心理学者として研究をしていた経歴をもっていて、日本やイギリスにも駐在経験もある背景の持ち主で、彼女から俺が学んだことは今でも役に立っていると思う。

9月は何かと休みが多くて、第1週と第2週の週末は4連休があって、その休みを利用し、俺はクラスメイトの友達とクイーンズに遊びにいった。

まだまだ冬服で過ごすプラッツバーグとは違い、NYCはTシャツで十分だった。週末の一日は、仲良しのジャズの先生とその奥さんとブロードウェイで一緒にミュージカル「Miss Saigon」を見に行った。

クロード=ミシェル・シェーンベルクとアラン・ブーブリルの脚本、ブーブリルとリチャード・モリトビーJrの作詞によるミュージカルで、ジャコモ・プッチーニのオペラ「蝶々夫人」を基にして、アメリカ兵とアジア人女性の引き裂かれた運命のロマンスを描いている作品だ。

ストーリーは「蝶々夫人」のアメリカ海軍士官と没落藩士令嬢から置き換え、1970年代、ベトナム戦争末期のサイゴンの売春バーで働くベトナム人少女キムと、アメリカ大使館で軍属運転手を務めるクリスの悲恋が描かれている。

歴史やストーリーは全く知らなかったのだが、とても面白くて、感動したことを今でも記憶に暖かい灯をともしている。

でも時おり会場中が笑いに包まれているのに、その笑いについていけない部分もあったことが悔しかった。英語が分からないときはもちろんだけど、その国、その土地の文化や慣習、その時代の社会を元にしたジョークは中々理解できず、「??」となったものだ。

ショーが終わった後シアターの外に出ると、役者さんたちがサインをしてくれていた。俺も主役のキムにサインをもらって、一緒に写真を撮ってもらったりした。歌もダンスもすてきだな~と思っていたから、緊張してペンを持つ手がぷるぷる震えていたが…今の俺からはとても想像ができないと思う。

役者さんたちは疲れているだろうにとてもフレンドリーで、お客さんとジョークを言い合ったりもしていて、そういうところがすごくアメリカっぽくていいなと思った。その日はとても天気がよかったから、野外のジャズ演奏を聴きながらゆっくりランチをしたのが一番の思い出かもしれない。

目まぐるしい学校生活から少し離れて、セントラルパークの広々とした芝生でゆっくりして、クラスメイトと楽しい時間を過ごせてとてもリラックスできたので、また頑張れそうだなと思った。

ここで少し告白しておくと、このクラスメイトこそが君のお姉さんであるサラの母親ジュリアだ。

それから連日勉強に明け暮れ、校内を巡り歩いていくつもの講義を受けて、様々な人の話を聞いた。これはこれで面白い体験だった。

プラッツバーグのみんなが温かく俺を迎え入れてくれて、「よく戻ってきたね~!」と言ってハグしてくれると嬉しくてほっとして、なんだか泣きそうになった。NYCでは街で毎日新しい人と会うことが多いので楽しいけれど、やっぱりどこか緊張しているのかもしれない。

また、クラスには俺と同じ人材管理学専攻の生徒も何人かいて、やっと自分のフィールドに入り始めたなと感じたことを覚えている。

一番大変だったのは文学の授業だった。先生は優しそうな顔をして山のような宿題を学期が始まった1週目から平気で出してくるのだ。また、授業はその宿題や予習をしてくることを前提にしたディスカッションベースのものなので、これが一番堪えた。

でもとてもやりがいがあって楽しく、とても充実していたし、自分自身がとても成長していたときだったと思う。

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