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【現代小説】金曜日の息子へ|第一六話 そうなればいいのに

前回の話はコチラ!

「サン、この前ニューヨークの地下鉄で脱線事故があったのって知ってる?」 9月に入って間もない頃だった。

大学本部にいた職員が何気なく彼に声をかけたのだった。そこは大学職員や学生たちの溜まり場になっていたのだ。

「いいや知らないよ」

サンがキョトンとした表情でそう答えると、「That’s what I thought.」と誰かが言って全員が笑っていた。その輪の中にはジュリアの姿もあった。

近くの職員と談笑しながら、俺は職員たちの会話に耳を傾けた。彼らが言ってた脱線事故というのは、ニューヨーク市地下鉄IRTレキシントン・アベニュー線の列車が1991年8月28日の夜半過ぎに、14丁目のユニオン・スクエア駅への進入時に脱線して大破した事故のことだ。

乗客のうち5人が亡くなって多数が重軽傷を負った痛ましい事故だった。彼らの話によると事故の原因は運転士の飲酒とそれによる速度超過だったようだ。

この事故でレキシントン・アベニュー線は6日にわたって区間運休となったようで大事故だった様子がうかがえる。

僕たちはすでにプラッツバーグに戻っていたけど、もしもこのときにニューヨーク市いたらと思うとゾッとする。

誰もが事故の当事者や関係者ではなかったので事故を茶化して誰かが話すたびに笑い声があがり、その都度ジュリアも一緒になって笑顔で話に加わっていた。それなのに彼女は決して社交的には見えないのが不思議だった。

彼女はラテン特有の大らかさと明るさを周囲に振りまきつつも、自分から積極的に声をかけることはほとんどなかったし、職員たちに話しかけられても頷きながら笑顔で手短に一言か二言返すだけなのだ。

そんな彼女はどこかミステリアスで、ジュリアが話すたびに全員が聞き耳を立てていた。僕もその一人だったけど。

そんな僕もこの大学に来る前の日本の大学では、ディスコでアルバイトをしていたし、先輩から人と話す時の距離感について学んでいた。つまり全部話してはいけないのだ。

「もう少しこの人と会話をしていたい」そう思わせる余韻を残して会話を切り上げるテクニックなのだが、彼女はそういうのとは違い感じだった。

この時、近くにいた職員が、ジュリアに何気なく訊ねた。

「君は翻訳家にでもなるつもりなの?」と。

ジュリアは日本の「エンガチョ」みたいな指のジェスチャーをして母国語で「Ojalá(そうなればいいのに)」と言った。

ポカンとした職員の顔を見て、「大学に残れればいいと思っています」と答え直した。それを聞いた職員はジュリアにとってささやか過ぎる希望と受けとめたらしく、職員たちは口々に「What a waste!」と、嘆いていた。

僕も「Don't waste your talents. Take charge of your life.」と良くも知らないでジュリアに訴えた。日本語だと「あなたの才能がもったい」というようなことだ。

俺は恥ずかしくなってその場から立ち去りたくなっている己の気持ちと戦っていた。なんで俺はこうした人間なのだろう? 大事な場面になると逃げだしたくなるのだ。

例えば小学生も終わりに差し掛かった頃に陽子と付き合うようになったんだけど、その時もバレンタインデーということもあって男子は皆浮足立っていた。

陽子が他の女子生徒に押されながら「早くいきなさい」と言われているようだった。何となく自分のところに来るのではないかと勘づいてはいたんだけど、実際に来られると明日からの学校生活に影響する。

もちろん天にも昇るほど嬉しい。その癖に逃げ出そうと教室から足早に出ていってしまったんだ。実際に陽子と付き合うようになってからずい分とこのときのことについて、しぼられたものだ。

君を生んだお母さんだってそうだ。違うクラスだったけど同じ学校だったらく僕に手紙を手渡してくれたそうだ。全く身に覚えがないのだけど、僕は破り捨てたそうだ。

親同士は知り合いだったし、気安い感情があったにせよ実際にやりかねない僕だったろうから否定はできなかった。

とにかく意に反した行動に出てしまうのだ。これは今でも変わらない性格かもしれないね。

ジュリアのことをもっと知りたい。彼女が何を思って何を望んでいて、そしてどんな行動をしようとしているのか。スペインのイビサで育った彼女はどんな生い立ちで、何を見て、どんな本を読んできたのか、どんなささいなことでもいいから彼女のすべてを知りたいと思ったのだ。

知れば知るほどジュリアは不思議な人だった。多くの人がその不思議な魅力について知ろうと近づいて来るのに、なぜか彼女は他人と打ち解ける様子はまったくうかがえなかった。

そんな陰の部分と陽の部分を併せ持った彼女にはきっと語るべき物語はたくさんあるはずなのに、敢えてそれを語らずにいる彼女とは一体どんな人物なのだろう?

僕は嘘をつくときのテクニックをもっている。真実は森の中に隠すのだ。木は森の中に隠せば簡単に見つかりはしない。そういった僕とは対照的だ。だから僕は必要以上に話す。必要以上に自分について説明する。

そうやって僕はこれまで生きてきてしまったのだ。

そんなジュリアは、周囲の人にミステリアスな印象を抱かせる部分があるから、それが彼女という人を引き立たせていたように思う。もっと開けっ広げな人だったら…僕と同じように自分を演出することができる人だったらあれほど彼女に魅かれることはなかったかもしれない。

僕たちはお互いに見えない部分を観ようとするし、謎があるからこそ知りたいと思うものだ。安易に語られてしまう言葉なんかよりも、語られずに終わってしまいそうな言葉を聞き出したいと願うのだ。

でも、僕は彼女からどれだけの言葉を引き出せるだろうか? 正直に言って、あまり自信がなかった。


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