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映るということ、写真の話

いつもいつも他人の記録に残らないように生きてきた。
写真を撮られないようにし、ネットにはあげられないようにした。根本的に誰も信用してないし、誰も疑ってこなかったから。「スマホで写真を撮られるとネットに挙げられるかもしれない」「LINEでその人以外に送られたらどうしよう」写真という情報を与えるということはそういうリスクがついてくるからだ。何より、他人の記録に残る。
それは自分に対してもそうで、インターネットでもリアルの画像は出さないし、極力自分を出さないように生きてきた。
ネットでも自分を誤魔化している。どこのコミュニティでも自分は嫌われないように生きているのだろうか、いや、多分違うな。そんな自分になりたくないだけだ。
本音は出さない。なぜなら、それがどれだけ醜くて気持ち悪いか知っているから。

高校1年生が終わってから、友達との写真を撮らなかったことを初めて後悔した。それほどまでに、転校するまでの高校1年間は、衝撃的で楽しい日々に溢れていたのだ。この後の2年間が地獄だった分特に。
だから1年生の頃にある、数少ない写真は私にとっての大切な思い出だ。
この思い出があるからこそ、写真への抵抗感が少なくなった。楽しい思い出を振り返られる、それが写真なんだ。私は写真への嫌悪感が強かったからか、それを理解するのに、有効活用するのにとても時間がかかった。

だから、今の私は写真を撮られても基本笑って許すようにしている。それがその人の大切な思い出になるかもしれないから。

それでもリスクは以前として残る。そもそもとして私は記録に残るというのが苦手だ。他人が善意で送ってくれた写真もダウンロードしないことも多い。そしてLINEの画像保存期間が過ぎて、結局見れなくなるのがオチ。だからイヤイヤでも送られた写真はダウンロードすることにした。気持ちなんていつ変わるかわからないのだから。そもそも論ほとんどが恥ずかしいだけだし。

そして一番の懸念は写真を撮ってくれた人間がその写真を悪用しないかどうかだ。
写真を撮ってもいいか、その写真をSNSにあげてもいいか聞いてくれる人ならいい。こちらに選択権があるのだから。でも無断で撮って無断であげられるのは良い気持ちはしない。

そこら辺はもう、その人を信用することにした。もちろん嫌なことならちゃんと言う。だが、写真の価値は私も理解している。だから少しでも譲歩したい。
そう、最後の最後に気持ちの問題なのだ。
どれだけ理屈で考えても論理的に考えても、最後の最後は感情で決まる。
なぜなら私は感覚派だから。
認めないだけで嫌なことは嫌だし、嬉しいことは嬉しいのだ。

少しずつ、自分を開示できるようになっていけたらなと思う。




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