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【極超短編小説】裏:喉に刺さった骨

 次が今日最後の患者だ。診察が終われば、久しぶりの休日で完全にオフの予定だ。そしてその前にはお楽しみが待っている。
 今、看護師はこの診察室にいない。人手不足のため病棟へ手伝いに行かせた。僕は自ら最後の患者を診察室へ呼び入れた。



 「先生、俺のこと覚えているかい?」
 ひととおりの診察の終がわったあと、パソコンに向かってカルテを入力をしていると、椅子に座っている最後の患者に話しかけられた。
 「ああ、覚えているさ。君じゃないかな、と思ってはいたよ」
 彼のことはよく覚えている。しかし今では、いや昔もそれほど興味があったわけでもない。僕の方から殊更、昔話をするつもりはなかったが、彼の方が気づいたなら仕方ない。相手をしないわけにはいかないだろう。

 彼とは医学部の学生だったとき、同じ学年だった。僕の成績は上位数%、彼は劣等生で下位数%だったが、出席番号が近かったこともあり、実習ではしばしば同じグループとなって話をする機会も多かった。




 僕は平凡的なサラリーマンの家庭で生まれて育った。どういうわけか僕は小さい頃からずっと勉強のできる子で、難なく高校は進学校に入った。それなりに勉強に打ち込み、成績はトップクラスだったから担任教師も親も僕自身も医学部への進学が当たり前だと考えた。
 勉強の成績が優秀だったから医者になることを目指すのは、ごく当たり前のことだと思う。それに医者になれば高収入を得ることができるというのは魅力だったし、医者というステータスに強烈な憧れがあった。もちろん、そんなことはおくびにも出さないで、苦しんでいる人を助けたい、と真摯な顔を作って建前を口にしていた。それが世間のマナーだとは十分に分かっていたから。
 ただ僕の父親の収入だけでは、医学部に通うのは厳しいと言わざるを得なかった。大学の近くに下宿を借りることもできなかったから、時間をかけて通学し、少しの空き時間でバイトもして、さらに奨学金が必要だった。
 今では奨学金も返済が終わって、学生時代の苦労に見合う望んだ通りの生活が得られている。仕事柄かかるストレスは大きいが、それも休日前にはリフレッシュすることができる。

 一方で彼は医者の家系で、彼自身も医者になることを周りから期待されていた。もちろん彼は学費に苦労することもなく、大学の近くのマンションに一人暮らしだった。しかし彼は講義を欠席することが多く、成績もまったく振るわなかった。ギャンブルや女や酒に溺れているわけではなかったが、ただぼんやりとしていて、ため息を付き怠惰な生活を貪っていた。同じように成績の振るわない連中と一緒に過ごすことが多かったようだ。
 僕はそんな彼を見て無性に腹が立った。金、家柄、血筋。恵まれた環境。嫉妬と妬みだ。
 そんな彼に対し僕は善良な学友を装い、良い医者になるため学業に真剣に取り組むよう叱咤したこともあった。朝はきちんと起きて規則正しい生活をすること、講義の予習や復習をかかさないことなど、自分の優秀な成績を背景にした彼に対する蔑みと優越感を隠して言い含めたのだ。
 しかしそれは当時の彼にとって困難であるということを、十分に知った上での、彼の毛並みに少しでも疵をつけてやるための方便であった。あわよくば彼を挫折に導くことさえ視野に入れていたし、そうなれば気味がいいと思ってやったことだった。
 そのうち、彼は欠席することが次第に頻繁になり、いつの間にか退学してしまった。彼の退学を知ったとき、僕は彼に対してほとんどまったく関心をなくしていた。元々、成績では相手にならなかったし、親しく付き合うメリットを感じていなかったから。出自が医者の家系である彼がいなくなってしまったということは、僕にとってみればちょっとした勝利感を思わず得ることができた程度のことだった。




 「精密検査が必要だよ」
 僕は彼の方へ向き直って言った。
 「痛みを抑えられればそれでいいよ」
 彼のニヒリスティックな笑みは、あの頃と同じだった。だがそれには身体的な苦痛が混じっているようだった。
 「しかし、まずは検査を……」
 「俺は医者の息子だぜ。それに退学したとはいっても、少しは医学のことはかじってる。自分の病気と残りの寿命は分かってる。鎮痛剤を処方してくれるだけでいいよ」
 彼は脂汗を垂らしている。持続する痛みがあるのだろう。
 「君の家族の病院には……」
 「とうの昔に絶縁されてるよ」
 僕の言葉を遮るように言った彼は、診察室の窓から外を眺める。彼の視線の先を見ると、鉄塔が夕日を串刺しにしていた。
 僕は再び彼の顔に目をやった。夕日が彼の顔を真っ赤に染めていた。眩しそうに目を細めた彼の顔には、何かを慈しむような優しい笑顔が浮かんでいた。
 僕は彼の表情を見て長い事忘れていたような感情を思い出した。それは嫉妬、妬み。そしてこの瞬間に憎しみも生まれた。
 彼を貶めたい気持ちがあふれた。それで彼に尋ねた。
 「ところで、君はあれからどうしていたんだい?」
 「その日暮らしさ。ずっとね」
 彼は僕を見て妙に清々しい顔で笑みを作って答えた。その言葉と笑みで、僕は更に腹がたった。
 「君はなぜ医学部を辞めたんだい?」
 「弱かったからさ」
 彼は膝の上で力なく広げた手のひらに目を落としている。
 「弱かったって、どういうことだい?」
 医学に興味が持てなかったとか、学業についていけなかったとか、そんな理由を僕は予想していたし、そしてあの当時、彼につけた疵が退学を唆したと期待した。彼の後悔の言葉を聞きたかった。



 「代々医者の家系で、親父とお袋、兄貴と姉貴も医者。家の中では医学や患者の症例の話ばかりだった。一喜一憂することは許されず、絶え間なく淡々と生死に向き合うことが、親父たちの生活だった。
 家族団欒がまったくなかったとは言わないし、親父たちにもそれぞれ趣味や娯楽はあっただろうとは思う。でもすぐそばにいる家族だから分るんだ。みんな喉には、一生なくならない魚の骨が刺さっているのが。
 俺は弱いから、そんなことには耐えられなかったのさ」
 彼の口からは一言一言、慎重に思い出すようにゆっくりと、言葉が流れ出た。
 彼の話を聞きながら、当時の彼の生活がなぜ僕からすれば怠惰に見えたのか、なんとなく合点がいった。僕と彼とは根本が違うのだ。民族とか人種とかそういうレベルではなく、種が違うほどの隔たりがあるのだ。僕の喉には何も刺さらない。僕の喉はただ飲み込むだけだ。
 僕はさっさと処方箋を渡して、彼を帰らせてしまおうと思いデスクに向き直った。


 「先生……」
 「少し待って、今処方箋をだすから」
 彼からの呼びかけに少しいらついて応えた。
 「先生は人を殺しているだろう?」
 彼の問いに、僕は表情や発汗、指先の震えなどの変化が無意識に自分の身体に現れないよう平静を保とうとした。
 「人を殺す?僕に何を言いたいんだい?」
 僕は彼の方に向き直り、眉毛が八の字になるような表情を作って、ほんの少し冗談めかすような口調で問い返した。
 「言葉通りだよ。俺は人の生死の直ぐ側にいた人間の中で育ってきたんだ。命を守る人間と弄ぶ人間の区別はつくさ。ここに来ることを迷ったけど、来て良かった。俺が病気になって痛みに耐えられなくなったことにも、意味はあったみたいだ」
 「君は相変わらず変わってるね。僕には君が何を思ってそんなことを言っているのか分からないよ」
 僕は表情を変えないように、それでいてフレンドリーな雰囲気を少し滲ませた口調で言いながら、頭の中では近くの薬品棚の在庫と注射器の場所を確認しようとした。休日前に、仕事のストレスをリフレッシュするために。

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