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【短編小説】鉄塔の町:闇に溶けて

 「先生、戸締まり忘れないでくださいね。お先に失礼します」
 と看護師の半田は言って、軽く頭を下げ診療室を出ていった。
 「お疲れ様でーす」
 高倉はパソコンのディスプレイに向かったまま挨拶を返す。



 カタカタ、カタカタ、ッターン、とキーボードを叩く最後の音が診療室に響いた。
 「ふう」
 と深く溜息をついて、高倉は両手を後頭部で組む。そして椅子の背もたれにもたれて目を閉じた。しばらくして目を開けるとディスプレイに映る文字がぼやけて見えた。
 「よし」
 と小さく呟く。丸子についての報告書が仕上がったのは深夜近かった。



 高倉は車のドアを後ろ手に閉め、駐車場から自宅マンションのエントランスに向かって歩いていると、いつもの気持ち悪さに襲われた。それは船酔いの感じに近かった。半年ほど前、クリニックに勤務するためこの町に引っ越して、その頃から始まったものだ。予兆もなく始まり、数分で治まることもあれば、数時間続くこともある。自分でも調べ、様々な検査もしてみたが原因は全く分からなかった。
 「くそっ!」
 高倉は思わず毒を吐き、エントランス前の階段にドカッと腰掛けた。頭を少しでもスッキリさせたくて、目を閉じて夜空を仰ぎ大きく息を吸う。そしてゆっくりと瞼を開けると、ちょうど正面、星空の中にぽっかり穴が開いていた。それは高い鉄塔の暗黒色のシルエットだった。
 軽い吐き気と霞がかったフラつきを堪えて、高倉は漆黒の鉄塔に焦点を合わせる。そう言えば、鉄塔は時々やってくるこの船酔いの間だけ見える気がする。普段は町に溶け込んで意識することがないから、そんな気がするだけなのか。それとも鉄塔が現れると気持ち悪くなるのか、気持ち悪くなると鉄塔が現れるのか。まとまらない考えが高倉の頭に溢れだした。



 「大丈夫ですか」
 と女性の声。その声はひんやりと心地よくて澄んでいた。
 「あっ、はい、大丈夫です」
 高倉はハッと我に返って、声の方へ振り向いた。
 高倉を覗き込むようにして問いかけてきた女性は、飾り気のない白いシャツにジーンズ。だが何より印象的なのはエントラスから漏れる弱い灯りでも分かるほど白く透き通った肌だった。
 「それならよかった。気分でも悪いのかと思って…」
 そう言ってその女性はうなだれた若い男性の脇を抱えて、軽く会釈するとエントランスへ向かった。
 「そちらの男性は大丈夫なのですか?」
 高倉はすっと立ち上がって、後ろ姿に問いかけた。
 「少し飲み過ぎただけですから。お気遣いありがとうございます」
 女性は少し振り向き、軽く頭を下げるとおぼつかない足取りの男性を支えながらエントランスに入っていった。
 二人を見送った後、高倉は船酔いのような気分の悪さがすっかり治まっているのに気づいて頬が緩んだ。
 何気なく振り返ると、夜の中に鉄塔は溶けていた。

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