【極超短編小説】裏:ガラスと短冊
気づいてほしいと言っているようなキラキラした光。
見上げると、高層ビルのガラスに太陽の光が反射していた。その光は私の深いところにある、かさぶたに触れる感じがした。
「おっ、やっと来たな」
と言った声に、私は視線をビルのガラスから隣の夫へ向けた。その夫の表情と声には優しさと慈愛が満ちている。
私たちの娘が公園を横切ってこちらへ駆けてくる。春をまだ出し惜しみしたような日差しとは違って、娘はこぼれるように溢れでる若さにはまったく無頓着だ。私はその若さに純粋な羨ましさとともに、危うさも感じる。
駆けてくる娘のスラッとした美しい体躯に、娘本人はまだまだダイエットが足りないと言う。あとひと月もすれば、彼女は一人で暮らすことになる。社会に出る前の4年間のモラトリアムが始まるのだ。
「ますます君に似てきたな」
走り寄る娘を見ながら夫が言う。
私はその言葉を聞いて、嬉しい気持ちや恥ずかしい気持ちはあるが、それにもまして期待と不安を思う。
「これ貰っちゃった」
と言って娘は私と主人に短冊のような紙を見せた。
「ライブハウスのチケットね。誰に貰ったの?」
「あの人、あのミュージシャンの人があそこで歌ってて、すごく良かったから拍手したの。そしたら、よかったらおいでって言って、くれたの」
娘は後ろを向いて、公園の反対側の端を指さして言った。
そこにはギターケースを抱えた中年の男性が見えた。
その男性はそこに立ったまま、のけぞるようにして視線を上に向け、その先へ手を伸ばしていた。その何かを掴むような素振りは、さっきのビルの光を思い出させた。
私は無意識に両手を胸に当てて、その男性の視線の先に目をやった。しかし何も見つからなかった。何も見えなかった。ただ、晴れた水色の空に綿飴のようなのんびりとした雲が漂っていた。
その何もない平穏と幸せの象徴のような光景に、ふと思わずにいられなかった。私にとっては足りない物はないはずだと。
私がみとれるように空を眺めていると、横で娘の体の動きを感じた。娘は大きく手を振っていた。相手はチケットをくれた男性だった。男性もこちらを向いて軽く手を上げていた。
私はハッとした。その顔には覚えがあった。娘から渡されたチケットをあらためて見てみた。そこにはあの当時のバンドの名前はなかった。彼の名前だけがあった。彼はまだひとりで音楽を続けていたのだ。思い出が一気に蘇った。
昔、それは私が今の娘と同じくらいの年齢の頃だった。
鉄塔とどっちの方が高いんだと思わせるような高層ビルが、東町の駅のすぐそばに建った。そのビルは全面がガラス張りで、光を受けるとキラキラ光っていた。
「俺はガラスに映った空の方が好きだな。なぜだろう。本物の空より広くてて深い感じがする。吸い込まれそうだ」
そう独り言のように言った彼も空と一緒にガラスに映っていた。
不安がよぎった。本能的な打算。一瞬の逡巡。そして私は何も言わずに駆け出した。彼も私を追わなかった。それ以来、2人に接点はなかった。
こちら側とあちら側、あの時の私と彼、今の私と家族。
これから、みんなはどこへ行くのだろう。
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