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【極超短編小説】裏:変わらない

 いつからだろう?生きることに理由はない、生きているから何をするか、そう思ってきた。でも、過去に戻れるならばという夢想を隠している自分もいた。



 その日、仕事が終わって会社を後にし、フラッと繁華街の方へ足を運んだ。週末だったし、妻と小学生の息子と娘は、妻の実家へ泊まりに行っていて、一人きりの家に帰るのも少し寂しい気がしたからだ。
 仕事はまあまあ順調、家族もまあまあ円満。滅入ってしまうような深刻な悩みも今のところない。ぼんやりと歩きながら、今の自分の境遇を振り返る。そしてふと思った。他人は今の俺をどう思っているのだろう?俺の背中をどんな目で見ているのだろう?
 電気がショートしたような音が聞こえた気がした。見上げると鉄塔の先端でオレンジ色のライトがゆっくりと明滅していた。

 しばらく歩くと歓楽街へ踏み入ったことに気づいた。そこでは肩が触れ合うほどに多くの人たちが行き交っていた。
 目に眩しいほどの夜の明かり。そして通りに充満する雑多な音楽の中には笑い声、怒号、嬌声が混ざり合う。その空間は光と喧騒に包まれ、俺自身もその中に埋もれていくのが分かった。仕事や家族や、それまで頭の中にあったことが霧消した。


 メインストリートからは細い枝のように路地が薄暗がりへ延びていく。その薄暗がりからは、いかがわしさと一緒に、直感的に黄色信号が灯るような危険な雰囲気がぬるりと流れ出る。
 ちょっと覗くだけ、少し触るだけ。そんな悪戯をするような気分を味わいながらゆっくりと歩く。 良さそうなショットバーを見つけたら、ダブルで2杯だけ。それだけで帰るつもりだった。


 入口ドアの上に掲げられた古めかしいネオンサインが目に入った。
 SHOT  BAR。そのネオンサインは切れかけていて、ジ、ジジジ、ジジという音とともに緑色の明かりが不安定に点滅していた。しかし俺がより気を引かれたのは、ドアの傍らに佇む少女だった。年頃は中学生くらい。着ているのは学校の制服だろう。
 少女は俺に気づくと驚いたような素振りをして、一瞬俯いたがすぐにこちらに向き直った。そして化粧もしていないのに妙に色めかしい表情でバーのドアを指さした。
 「今、空いているわよ」

 「外に女の子がいるんだけど……」
 俺はハイチェアーに座りながら、カウンターの中の店主らしい初老の男に声をかけた。
 「ほう、驚きました。お客さん、あの娘に気づいたのですね?」
 店主はグラスを磨く手を止めて、こちらに振り向いて応えた。
 「気づいたって?制服を着た中学生くらいの女の子が、こんな時間に、バーの前にポツンと立っていれば誰だって気づくでしょう?」
 俺はそう言って、上着を脱いでネクタイを緩めた。
 「普通なら気づくでしょうね」
 店主は、口角をキュッと上げて鼻で笑うように言った。
 「普通なら?」
 「この辺りもこの辺りにいる人間も普通じゃないでしょう?ましてやこんな時間ですよ。気にかけてもらって有り難いですけど、心配は要りません。あの娘はうちで面倒を見ている娘でね。夜になるといつも、ああやって通りを眺めているんです」


 店主が俺の前にウィスキーのダブルを置いた。グラスの中で、たっぷんと琥珀色の液体が波紋を描いた。その中心から外に広がる波紋は、俺の頭の中のあの少女を遠くにまで追いやって、少女は彼方の黒い点となった。
 それから俺は店主と他愛のない、当たり障りのない会話を楽しんだ。不思議な気分だった。背中のすぐ後ろに暗闇が迫っているのに、怖くない感じ。恐怖の感情が麻痺したような感覚の心地良さ。2杯目のダブルを飲み干して3杯目をオーダーした時、店主の口角がキュッと上がったように見えた。


 バーのドアを開けて外へ出ると、あの女の子が振り向いた。
 「家に帰るの?」
 女の子は俺の顔を見つめて言った。その声と口調、それに表情は、俺をバーに誘ったときの色めかしさがなくなっていて、年相応の可愛らしさがこの界隈の妖しさに不似合いだった。
 「そうだね、もう帰るつもりだよ」
 「途中まで送ってあげる。駅の方だったら危なくない近道を知ってるから」
 女の子はそう言い終わらないうちに歩き始めた。
 「でも、君、もう夜は遅いよ。それに……」
 俺は女の子の後を追いながら声をかけた。
 「大丈夫。わたしに気づく人なんていないから。君……、おじさんくらいだよ、わたしに気づいた人なんて」


 女の子は俺の前を歩きながら時々振り向いて、こちらについてこいと笑顔を見せた。駅まであと10分か15分かそんなに長くはないだろう。しかし一歩進むごとに、長い年月を歩いて戻る感じがする。
 「ちょっとここで待っていて」
 女の子はそう言って駆け出した。そこは建物に囲まれた小さな公園だった。建物の黒いシルエットの隙間から駅ビルの明かりが見える。ここは使い勝手の悪い空き地を、埋草の体で公園にしたのだろう。
 俺はベンチに腰掛けて女の子を待った。飲みすぎてしまったなあ、と思いながら、俺はまだ今晩の不思議な感覚に浸っていた。
 「お待たせ」
 女の子は俺の前に立って、缶ジュースを差し出して言った。
 俺は缶ジュースを開けて、一気に喉に流し込んだ。冷たい炭酸と甘ったるいグレープの味に強烈な懐かしさを感じた時、身震いするほどの強い視線を受けた。視線は俺の横に座った女の子のものだった。
 「ん?どうかしたのかい?」
 俺は女の子にそう問いかけた。俺の缶ジュースを持った手は、なぜか小刻みに震えた。


 「君、本当には気づいていないんだね。本当に分からないのかい?」
 女の子は俺の目をジッと見つめて言った。声色が今までと変わっていた。
 「え?な、何のことだい?」
 そう言う俺の声はかすれていた。遠くにあった小さな黒い点が実は俺の背中のすぐ後ろに迫っていた暗闇だと分かった。俺は遠く彼方に自分の背中のすぐ真後ろを見ていたのだ。
 「僕は15歳の中学生を選んだ。それに女の子になることも選んだ。僕のことを思い出せないかい?」
 女の子は俺から視線をはずし、夜空を見上げながら言った。



 俺は女の子の横顔を見つめながら記憶を手繰る。中学校……クラスメート……友達……。
 俺は親の仕事の都合で何度も転校した。その中でとても短い間だけ通った学校があった。2、3か月くらいだったと思う。その学校で妙に馬の合う友達ができた。親友という言葉を初めて使った。登校、授業の休み時間、放課後はいつも一緒だった。そして夏休みもずっと同じ時間を過ごした。
 まったくの子供でもない、大人になりかける少し前。明瞭な輪郭を持ってその当時が思い出された。ネオンサインの下に佇んでいた女の子は、あの親友だった。


 俺たちは川の土手に並んで座り、よく語り合った。当時、男の子だった親友は、夕暮れの空に瞬き始める星を仰いで自分の未来を話した。俺は男の子の硬い意志を滲ませる横顔を見ながら、彼の言葉を聞いていた。そこには彼の思いの強さへの憧れがあった。今、俺の横にいる女の子の横顔は、まったくの女の子ではあるけれど、あの頃の彼の横顔だった。
 「それじゃ、わたしはもう帰るね」
 そう言った彼はネオンサインの下の女の子に戻っていた。
 「俺はどうすれば良かったんだろう?」
 忸怩そして言い訳が口をついて出た。
 「おじさん、気をつけて帰ってね」
 そう言って女の子は来た道に向かって走り去った。
 ジ、ジジジ、ジジと覚えのある音が聞こえた気がした。

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