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【短編小説】鉄塔の町:僕は誰③

 ベランダに出て外の景色を見渡しても、広がる町並みは記憶になく初めて見る光景に思える。ここから数キロほど離れているだろうか、遠くに高い鉄塔が見える。不思議とその鉄塔に行かなければならないような、呼ばれているような気がした。
 ベランダの手摺りに手をかけて上下左右を見ると、この部屋は集合住宅、マンションの一室の3階部分であることが分かった。


 リビングに戻ってソファーに腰かけ、あらためて今の自分の持ち物を確認してみる。ズボンの前ポケットにはカギが一つ、この部屋のカギらしい。後ろポケットにはタオル地のハンカチ。上着には二つ折りの真新しい濃いブラウンの革の財布だけ。
 財布の中には折り目の無い綺麗な1万円札が3枚、銀行のクレジットカードが1枚そして免許証。
 免許証によれば僕の名前は『綾瀬アヤセ ケイ』で年齢は『32歳』。住所は東町3丁目‥‥、記憶にない住所だ。この部屋の住所なのか?あとで調べてみよう。免許証の裏面には特に記載はない。


 「ふぅー」
と思わずため息が出る。未だに何も思い出せない。
 僕はおもむろに立ち上がりリビングを見回し、ふと自分の服装に目をやる。濃紺のスーツ、白のワイシャツ、黒い靴下、紺の無地のネクタイで腕にはアナログの腕時計。これといった特徴は見当たらない。ごくごく普通の中年男で、どうみても勤め人、サラリーマンっぽい。失った記憶の手がかりには‥‥なりそうにない。
 再びリビングをじっくりと見回してみると、目に映るものにねじれたような違和感があるものの、不思議とこの部屋は自分の部屋だと思える。
 隣の部屋はベッドルームでシングルベッドがひとつきり置かれ、ピシッとベッドメイキングしてある。壁一面のクローゼットの中は空っぽだった。
 その後、キッチン、洗面所、風呂、トイレと順番に2LDKのこのマンションをくまなく調べてみたが、記憶の手がかりになるようなものは何も見つからなかった。分かったことは、電気も水道も使えること、トイレットペーパーが三角折りしてしてあったこと、風呂に白の無地のタオルと使われてない石鹸があることだった。このマンションの部屋には生活感がなかった。


 僕はリビングのソファーに腰かける。
 さて、これからどうしたものか。記憶は戻るのか?それともずっと戻らないのか?あるいは何年もかかって少しずつ戻るのか?
 ここでじっとしていてもらちが明かないだろう。
 僕は外へ出てみることにした。


 


 

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